ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジン neoneo |
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┃n┣━┫o┣━┫e┣━┓ ★ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジン
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┗━┛ ☆━┛ ┗━☆ 30-1号 2005.2.15
∽∽∽∽∽∽ HEADLINE ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
†01 日本のドキュメンタリー映画のかたち
ドキュメンタリーの新しい夜明け (2) 阿部 嘉昭
†02 自作を解剖する
『わたしの季節』 小林 茂
†03 ワールドワイドNOW ≪ニューヨーク発≫
サンダンス映画祭の旅(1)―少し長い前置きから初上映まで―
東谷 麗奈
†04 列島通信 ≪名古屋発≫
「特集:ドキュメンタリーの過去と現在」を終えて 越後谷 卓司
†05 特別寄稿:
科学映画の歴史〜東京シネマを軸として 岡田 一男
†06 neoneo坐通信(14) 2月後半のプログラム
2月18日(金)〜2月19日(土)「山ドキ!東京予備校」
―山形映画祭・アジア千波万波を中心に上映
2月23日(水)「短篇調査団」上映会(3)
ひなの巻『ひなまつり 日本人のこころ』 他3本
2月27日(日)「小川紳介のコスモス〜小川プロの仕事」
『映画作りとむらへの道』『三里塚・辺田部落』
※30-2号へ
◇────────────────────────◆◇◆
†07 広場
投稿屋台『クチコミ来来軒!』(6)
新・クチコミ200字評!(5) 清水 浩之
臨時企画 短篇調査団・調査報告
投稿:「小川紳介のコスモス〜小川プロの仕事」レビューリレー(5)
『三里塚・第三次強制測量阻止闘争』('70)を見て 毛利 明光
「はじめまして、小川さん」 阿部 理沙
†08 編集後記 伏屋 博雄
★バックナンバー閲覧はこちらまで
まぐまぐ配信 http://www.mag2.com/m/0000116642.htm
melma!配信 http://www.melma.com/mag/39/m00098339/
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┃01┃□日本のドキュメンタリー映画のかたち
┃ ┃■ドキュメンタリーの新しい夜明け (2)
┃ ┃■阿部 嘉昭
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●トラヴィス・クローゼの場合
『アラキメンタリ』は写真家荒木経惟に傾倒するアメリカ人、トラヴィス・クローゼ
によって撮られている。写真家の営為をドキュメンタリーで綴るというのは、(写真
家の死後に撮られたということでいっさい対象=牛腸茂雄の実像が出てこない)
『SELF AND OTHERS』(佐藤真)、『≒森山大道』(藤井謙二)、そして記憶喪失事故以
後の中平卓馬の現状を追った『きわめてよいふうけい』(ホンマタカシ)と、このとこ
ろ間歇している。
これらは動画中に写真という静止画が挿入されるのを作品条件としている。そのさい
写真家の写真と実写動画部分に「拮抗」が生ずるか否かが眼目となる。佐藤真作品で
は、牛腸写真の熾烈な他者性を喚起する、田村正毅の中間的映像が、霊的な境位に達
していた。ホンマタカシ作品は70年代初頭の中平が自己分裂的に主張した写真の「植
物図鑑」化を現状の中平の写真行為とホンマの「地の文」が謐かな相補性でしるしづ
けた点に襟を正した。藤井作品は森山への甘えた「凭れかかり」に鼻白む面があった
が、森山にデジカメを与え、それを彼がどう使いこなすかが見物だった。森山は最初
わずかに逡巡をみせたものの、やはりそこで得られるデジタル画像を即座に「森山大
道化」してしまう。となると、写真家に向けられたドキュメンタリーの視線は、写真
家自身の身体性の提示、それを大きな余禄とするとわかる。佐藤『SELF AND
OTHERS』が圧巻だったのは、牛腸の実像を不在のままにしてその身体性の予感を画面
すべてに幽霊のように漂わせてしまった点だった。
『アラキメンタリ』に戻る。最初に荒木の身体性が画面に流れのなかにどう定着され
たかについて。――荒木は速い。手が。発想の転換が。著作350冊という彼の履歴が
何を導いたか。たとえば作中、写真集の色校場面がある。荒木は全然印刷を吟味しな
い。「ああ、これ撮った」「これ撮った」。それで「いいだろ? コレ」等と周囲に
同意を求めながら、次々に仮綴した頁をひるがえしてゆく。その手が極度に速いのだ。
『伝説のギタリスト』でのジミ・ヘンドリックスのよう。ジミ・ヘンはギターフレッ
トの上の指が速いだけではなく、グルーピーの女の子の顔−胸−腹−下腹を触る手も
速かった。たぶん時間感覚がちがう。たとえていえば、常人の1秒が10秒になってい
る。荒木にもそれと同じ資質があった。だから彼の瞬間運動神経が優れているのだ。
ただこの場面、荒木がもう写真の並びを自分で決めてないのかと疑義ももたらす。
改めて整理すれば、『アラキメンタリ』は「荒木の写真撮影現場密着」「識者を中心
にした荒木への評言」「荒木の大量の写真の挿入」――以上の3層によりオーソドッ
クスに組成されている。コメンタリーは、たけし、ビョーク、森山大道、神蔵美子、
飯沢耕太郎、それとオバサンをふくむ女性被写体たちなど。その被写体たちが異口同
音に荒木の「やさしさ」をいう。大股開きで縛られてもそれが自己実現だと総括され
ているためだ。このあたり、もっと批判的な視線がほしかったが。
撮影隊は、上記以外に映画の「地の文」として「東京風景」を織り込む。その風景把
握自体は、たとえば荒木自身の傑作『東京は、秋』に比して霊性も翳りも弱い。ただ、
東京を「アジア的増殖」「速度」「猥雑」で括ろうとする姿勢が一貫している。クロ
ーゼはそのように荒木を見抜いているということだ。押井守や三池崇史などが体現し
ているとおもわれている、日本のサブカル通念の上に乗った見切りだろう。ただ、ク
ローゼは東京が増殖から停滞の域に死の歩みをひとつ進めたとは認識していない。彼
の現状把握は80年代的なのだ。ただそのことが荒木自身の80年代型才能の質と精確に
見合っているから、作品に齟齬が生じていない。
それで作品が荒木の現状を取り逃がした面もある。彼はたぶん、妻の陽子さんが死ん
でから、写真行為においては恒常的な下痢状態が続いているとおもう(そこに悲壮な
凄みがある)。もともと生に死を感知してしまう彼の感覚には独自の二重性があり、
下腹がつきだしアル中の気味もある彼のしるす「衰退」は、一局面では二重性の強化
を結果する。作品の無意識部分でその感触が終わり間近、フッと出る。(遊女の無縁
仏たちの)墓場で遊んでいた彼の幼い日々。「俺は女の身体を綺麗に撮ろうとなんて
おもっていない。醜さと美しさの共存を撮っている。あるいは醜さこそを中心的に撮
っている」といった述懐。一回の撮影ではカメラが複数台あり、メインのカメラは当
然、掲載媒体を想定するため最良のアングルで撮られている。ただ荒木の秘密のカメ
ラでは対象の裸体がグチャグチャにフレームで切断されている。ここで戦慄が走る。
荒木は女の身体を「異界」として本当は撮っているという確認が改めて生ずるのだ。
その異界の中心が中身を露呈された女性器だろう。それは恐怖の蔓延を防ぐべくボカ
されなければならない――そこから「魔」の跳梁が始まってしまうから。そうして日
本の検閲と荒木の写真の質が妙な釣り合いをみせている――そんな文化論が作品把握
には必要だろう。.
ともあれ、一本の映画でこれだけ女性器を見ることはない。なのに「欲望」が起こら
ない。東京の地上は、室内は、飲み屋は――ある年齢以上の者には、もう欲望の生産
に結びついていない。飲み屋での荒木の下ネタジョーク、その延々の同語反復。勃起
そのものすらもう同語反復性しかかたどれないという事態は、実は勃起の非勃起性を
告げてもいる。そこがこの作品で由々しい。
夥しい荒木写真のフラッシュインサート。荒木の初期活動中の個別郵送コピー写真集
の実際(「やはりこんな体裁だったのか」との感慨が生ずる)。『センチメンタルな
旅』では若妻の身体や風景に刻印されている死に厳粛になり、『冬の旅』ではその妻
の実際の死、そして展開にしたがい徐々につよくなる荒木自身の縮減傾向に泣けてし
まう。荒木とは「量」だ。その「量」を「質」に置き換える刻々の脈動だ。ところが
彼の排泄の一個一個を微分してゆくと、その「質」にやはり天才の刻印が現れている。
この点は圧倒的だ。
あるくだりのクローゼの編集はそれに見合う。写真、写真集の表紙の洪水的フラッシ
ュによって、映画を映画たらしめている「基底」に過激な亀裂が走るのだ。眼は視え
るもの以外をも視てしまう(女性器のボカシにたいして起こる特有の事態でもあるが)。
肥っていた頃のHiromixの全裸が一瞬現れた。なら荒木の事務所に掲げられていたと
伝えられる、絶頂期小泉今日子のカレンダー用のヘアヌード写真は? 紛れこんでい
たような気もする――そうではないような気もする。そうした錯視はおのれ自体を欲
望するしかない欲望特有の作用だ。ただ繰り返すが――その欲望が非勃起的な点に恐
怖が宿る。評者はこの点をもって本作が現在的ドキュメンタリーの標準を突き破って
いると考えたのだった。
■阿部 嘉昭(あべ・かしょう)
少し前に、立教大学の学生の期末レポートの採点を四苦八苦で終えた。うちの秀作を
サイトアップするための作業に取り組んでいる。寧日がなく試写に出向けない。しか
もやっと観た作品が期待に反するというパターンがつづき、心も晴れない。そのなか
で異様な収穫だった劇映画が、池田敏春の『ハサミ男』だった。
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┃02┃□自作を解剖する
┃ ┃■『わたしの季節』
┃ ┃■小林 茂
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いのちの根源をみつめる映画
大地から芽吹くように人は生まれ、
春夏秋冬と季節がめぐるように人は生きてゆく。
生きてゆく喜びと、生きてゆく苦しみの間に、
それぞれの人生がある
この言葉とともに始まるドキュメンタリー映画『わたしの季節』は、人としての「存
在感」と「こころの声」を拠り所に、深いところでいのちの根源を見つめた映画です。
けっして障がいを持つ人びとが社会の中でどう処遇されるべきか、ということを問う
た映画ではありません。ただ、ひたすらに、映画に登場する人びとと直(じか)に対面
してくれることを願っています。
この映画の主人公たちは、ある重症心身障害児(者)療育施設(第二びわこ学園)に40年
間暮らしている人びとです。あるいは、自発呼吸ができない子どもたちです。重い障
がいをもつ人もまた、生まれ生きています。同じです。しかし、生きる困難さは同じ
ではありません。深いところでいのちの根源を見つめています。そのことが、彼らの
「存在感」を強くするのではないでしょうか。人はその「存在感」にふれると、励ま
され、癒されます。自らのいのちの根源に糸を垂らすからです。どこまでも深い海へ
沈むように。どんなにか多くの人びとが、この人たちから生きる勇気と自己変革のエ
ネルギーをもらったことでしょう。
●映画のはじまり
「40年間生きてきたことを映像として残せないだろうか」
5年前のこの1本の電話から、映画『わたしの季節』は始まりました。第二びわこ学園
が老朽化にともない新築・移転する計画がすすんでいるというのです。40年の歴史を
もつ「びわこ学園」は西日本で最初に開設された重症心身障害児(者)療育施設です。
学園を知って30年になります。20年前には、彼らの7泊8日の琵琶湖一周歩行を撮影し、
写真詩集『ぱんぱかぱん』として出版。写真を始めて間もない頃です。学園での体験
はずっとこころの底にはりつきました。その後、新潟水俣病の舞台となった阿賀野川
に生きる人びとを描いたドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』(佐藤真監督)の撮影
担当を機に郷里の新潟にもどって16年が経ちます。地方にいて、キャメラマンの仕事
を待つだけでは気がとおくなるばかりです。いつか、撮影を兼ねた監督作品も作るよ
うになっていました。
映画になるのかどうか。どんな映画にすればよいのか。第二びわこ学園を久しぶりに
訪ねました。いっしょに琵琶湖を歩いた人たちの髪に白いものが混じり顔にしわが刻
まれていました。ショックでした。私が生きたと同じ時間を、彼らも生きていました。
あたりまえのことです。でも、私は忘れていたのです。
第二びわこ学園に泊り込みました。開設時に入所した10歳前後の子どもたちは40代か
ら50代になっていました。加齢にともない障がいが重くなっている人も多い。3歳か
ら70歳の入所者121人のうち4割以上の人が30年以上ここで暮らしていました。人工呼
吸器をつけた子どもたちに初めて出会いました。家族会もありました。知らないこと
が多すぎました。
「カメラを回しながら考えるしかない」。しかし、クランクインを目前にして病に倒
れました。救急車。左半身不随。脳梗塞。右手は動く、カメラは持てるか。ゆっくり
と時間が流れました。少しずつ回復してゆく喜び。復帰の不安。PTSD(心的外傷後ス
トレス障害)が強く残りました。この映画を撮影する前に、病と障がいをもった側か
らみた世界を体験するように与えられた試練のように思いました。自分の気持ちを伝
えられないことがどんなに苦しく悔しいことか。また、人は障がいがあっても動くと
こならどこを使ってでも表現したいものであると実感しました。2002年10月、運動会
からクランクイン。カメラが回る音が心臓の鼓動のように聞こえました。(クランプ
アップ2004年4月、完成9月)
●製作体制
この映画の製作をどうしたらいいのか、悩みました。『わたしの季節』製作委員会
(代表山崎正策びわこ学園理事長)を立ち上げ、びわこ学園の皆様のご理解とご協力を
いただくとともに、50人ほどの映画製作協力賛同者の呼びかけのもと、多くの方々か
ら製作資金の協力を仰ぐという方法をとりました。一人では何もできません。スタッ
フも苦労覚悟で集まってくれました。プロデューサーと録音に、前から私の作品の仕
上げをしていただいている協映の田辺信道さん。撮影助手には昨年『掘るまいか』
(橋本信一監督)の撮影で高い評価を得た松根広隆さん。そして助監督には私の前作
『こどものそら』の学童保育所の指導員だった吉田泰三さん。企画取材に酒井充子さ
んが入ってくれ、文化庁の支援もいただきました。
今回は16mmフィルムを使って、スタッフの力を決集した作品にしたいと思いました。
また、障がいを持つ一人ひとりの「存在感」を浮き上がらせることを大きなテーマと
しましたので、それにはフィルムの質感が合っていると考えたからです。製作費は少
なく、苦労するならフィルムでというキャメラマンのこだわりだったかもしれません。
この映画の編集にあたっては、私が監督と撮影を兼ねていることから、客観的な目が
ほしくて、『阿賀に生きる』の佐藤真監督と感性豊かな秦岳志さんに編集をお願いし
ました。お二人のご尽力はすばらしく、この映画を広い世界に解き放つ作品へと導い
ていただいたと思っております。また、田辺さんの現場録音がすばらしく、思い切っ
てナレーションなしの作品にしました。できるだけ、映画に登場する不思議な人びと
と直接会ってもらいたかったのです。
●映画の現場から
現像所からあがったばかりの音もないラッシュフィルムを学園で映写し、関係者と論
議を深めながら進めました。撮影スタッフが気づかない側面が語られます。また、
「日常の忙しさにかまけて、見過ごしている点がたくさん見えてくる」とは職員側の
弁です。利用者の人たちにもラッシュは公開されました。
撮影中のエピソードを第二びわこ学園の地域交流誌「紙ひびき」に連載しました。こ
こでは簡略にご紹介します。
<粘土と自由>
利用者の人たちが粘土をする様子を写したフィルムを何回も何回も観ながら、わたし
にはその様子が不思議に思えてきた。粘土に自分の思いのたけをぶつける。形にとら
われることなく、粘土そのものと会話しているように思えるのである。「作品は、彼
らが土と遊んだ残りカスみたいなもんです」と粘土担当の人はいう。粘土そのものと
戯れることができる彼らの心の自由。それが映画に写ってほしい。私も「映画」とい
う「粘土」といかに自由に遊べるか、と問われているように思えてならない。「かた
ち」にとらわれず、わたしという一人の人間のこころが宇宙に漂流するように、ただ
そこに在るような映画。
<シャモジと仏さまの手>
窓際のカーテンと戯れながら、シャモジを両手に持ち床を叩いているA(54)さん。
自傷のため視力は失われた。 わたしはAさんを撮影することにためらいがあった。
自傷による傷痕の痛々しさもさることながら、私とAさんとの間に心の通い合う道を
見つけられなかったのである。
ある日のお茶の時間。Aさんに「お茶ですよ」と声をかけたときである。Aさんはむ
っくと起き上がり、すっとわたしの前に静かに両手をそろえ差し出したのである。
わたしがその両手に茶碗を置くと、両手で包みこみ拝むように口に運んだ。それはま
るで茶室で茶をいただいているようにも、仏者の托鉢の姿にも見えたのである。その
美しい姿が目に焼きついた。Aさんを撮影できるようになった自分を感じた。密着し
たレンズがAさんの心の奥底に届くように祈りながら長くカメラを回した。
<長い時間>
学園に残されている昔の白黒の8mmフィルム。服装、風景、のんびりした空気感。
40年という時間が漂う。
人の成長は人間的社会的広がりをもとめるのが道理である。しかし、それを保障する
制度も、また、「障がい」をともに受け入れようとする社会の経験もまだまだ少ない。
「自分が死んでも子どもが生きていけるように」と願う純粋な親たちの気持ちさえ、
ときには変化を望まない力となって子どもに働くこともあるのである。そういう状況
の中で自己の確立を形成する困難さを想像してほしい。幼いときから親元を離れ、
「施設」に40年暮らすという意味を考えないわけにはいかない。自己の確立と、これ
らの壁に挟まれ、悶え苦しむ姿をたくさん見てきた。映画のひとつの主題のように思
える。
●おわりに
音楽が人びとの心に染み透るように、映画が映画として自らの道を歩み始めたとき、
きっと私たちは多くのことに気づかされ、映画から新たなもう一人の自分を発見する
ことでしょう。最後に、カメラの前に生身の姿をあらわされたみなさま、そして、こ
の映画にかかわられた多くの方々に敬意を表します。この映画が多くの人びとにご覧
いただけることを願ってやみません。
☆『わたしの季節』(カラー・16mm・107分)第59回(2004年)毎日映画コンクールの記
録文化映画賞を受賞
■小林 茂(こばやし・しげる)
1954年新潟県生まれ。『阿賀に生きる』(佐藤真監督)の撮影により日本映画撮影監督
協会第1回JSC賞受賞。ほか撮影作品に『地域をつむぐ』(時枝俊江監督)『闇を掘る』
(藤本幸久監督)など。監督(撮影)作品に『放課後』『自転車』『雪合戦』(以上『こ
どものそら』として公開)『ちょっと青空』。写真集に「ぱんぱかぱん」(第二びわこ
学園のびわ湖周歩の記録)、「トゥスビラ・希望――ウガンダに生まれた子供たち」
など。長岡市在住。
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┃03┃□ワールドワイドNOW ≪ニューヨーク発≫
┃ ┃■サンダンス映画祭の旅(1)―少し長い前置きから初上映まで―
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■東谷 麗奈
●作品が選ばれた!
1月20日の早朝、徹夜明けの私は一足早く着いたラガーディア空港で皆が来るのを待
ちながら、ここ数ヶ月のことを思い出していた。これから10日間、いよいよ私達のサ
ンダンス映画祭の旅が始まるのだ。
アメリカの最高峰サンダンス映画祭から、私の所属するダウンタウン・コミュニティ
・テレビジョンセンター(DCTV)に、正式な回答が届いたのは昨年11月のことだ。
DCTV は、1972年の設立よりコミュニティに根ざしたドキュメンタリー主体のメディ
ア活動を行っている団体で、そのプログラムのひとつに、アメリカの経済的に恵まれ
ない家庭出身の10代の少年少女たちを対象とした無料のメディア・トレーニング・プ
ログラム通称PRO-TVがある。参加者の性質上、黒人としてのマイノリティの問題、南
米やアジアからの移民の問題、シングルマザーである親との関係など、少年少女たち
の視点で拙いながらも真に迫った作品が毎年数多く作られている。その中から、今回
サンダンス映画祭正式出品という快挙を成し遂げたのが22分の短編ドキュメンタリー
「Bullets in the Hood: A Bed-Stuy Story」だ。世界トップクラスの映画祭に、二
十歳になるかならずの少年たちの作品がなぜ選ばれたか、その理由はおそらくこの作
品の持つ強烈な背景にある。
ブルックリンのハウジング・プロジェクト(低収入世帯を住まわせる公営住宅)に住む
二人の少年、テレンス・フィッシャーとダニエル・ハワードが監督する本作は、銃に
よる暴力を題材に撮影を始めて間もなく、テレンスの目の前で親友が射殺されてしま
うという事件が起こった。しかも、銃を撃ったのはNYPDの警官だった。当時PRO-TVの
ディレクターであった桑野まみさん(以下まみさん)が、子供達と一緒に警察やメディ
アの対応に追われていたのがちょうど一年前のことだ。プライベートな時間も投げ出
して奔走していた彼女が、それでも「テレンスはなかなか心を開いてくれなかった子
だったから、事件があって最初に私に電話してきてくれたことがうれしかったんです
」と言っていたことが印象に残っている。少年たちは武器を携帯していたわけでもド
ラッグをしていたわけでもない。けれど警官は無罪放免、何の罪にも問われなかった。
制作スタッフだった少年、少女たちは、皆は僕らが抗議暴動を起こすと思っているん
だろうと言いながら、そうではなくカメラを回し続けた。ショックの中にいる友人に
カメラを向けることは、決して容易いことではなかったはずだ。また、当時主要なメ
ディアがかなり報道していたので、警察や司法も介入して外からのプレッシャーは相
当なものだったと思う。そうして、文字通り血と汗と涙を流しながらやっと完成した
作品の出品決定だった。
スタッフ一同喜びも早々に、非営利団体であるDCTVとしては、まず制作スタッフであ
る10代の子供たちを映画祭に出席させる為のお金集めから始めなければならない。こ
の為に、寄付金担当の専門スタッフがメディアへの発信と絡めてたいへんな努力をし
てくれた。作品のエクゼクティブ・プロデューサーでもあるまみさんは、登場する人
々や進行する裁判との兼ね合いなどの法的な対処、取材の受け入れの中心となる。
そして、映画祭コーディネーターとしての私の役割は、上映ビデオの準備、プレスキ
ットの作成、飛行機や宿の手配、映画祭側とのやり取り等だった。とにかくその仕事
量はたいへんなもので、スタッフは皆年末年始の休暇を返上して夜遅くまで働いて準
備した。
その全員の頑張りと期待を一身に背負って迎えた出発の朝だった。いきなり共同監督
の一人テレンスが財布を忘れてきたので、まみさんと彼を次の便に残すというハプニ
ングに見舞われる。残るもう一人の共同監督ダニエル(以下ダニー)と制作スタッフを
含む10代の子供たち4名、そしてダニーの母親、宣伝担当スタッフの計6名を私が引率
していくことになった。子供達が朝食を買いに行ってしまうと、大人もお手洗いに行
っていいかと聞く。一人旅のようにはいかない。しかも、私は普段はPRO-TV担当スタ
ッフではないから、これまで子供達とは挨拶ぐらいしか交わしたことがない。子供も
その親も私を信用しかねているのが分かる。全員のチェックインを済ませ、セキュリ
ティチェックを見届ける頃には、とにかくこれ以上のトラブルが起きないようにと願
った。これは、思ったよりずっと大変な旅になりそうだ。
さて、目指すはユタ州パークシティ。サンダンス映画祭というのは、てっきり土地の
名前から来ているのだと思っていたら違うのだ。今回未経験な私達をサポートしても
らうべく、この旅に特別に宣伝担当として同行してもらうことになったデュアナは、
サンダンス映画祭で長く働いたことがあり説明してくれた。この映画祭は、もともと
町興しのひとつとして行われていた地元の映画祭を、俳優・映画監督であるロバート
・レッドフォード率いる若手人材育成組織サンダンス・インスティティートが1985年
に引き継いで世界に名を知られる映画祭に育てたものだ。サンダンスというのは、レ
ッドフォードが出演していた名作「明日に向かって撃て!」で演じた役名から名付け
られたものなのだ。
ダラスで乗り換えて、ニューヨークから2時間の時差を確認すると、飛行機から見え
る風景は一変して、真っ白な雪に覆われたなだらかな山々となる。ちょうど今の時期
はスキー客でにぎわっているシーズンらしい。到着すると車で45分ほどかけて移動し、
コンド(一軒家が連なったようなアパート)にチェックインする。ロビーに映画祭のパ
ンフレットが山積みにされ、町には黄色と黒をあしらった映画祭ロゴの旗がなびいて
いるのを見るといよいよやってきたのだとう実感が湧いてくる。
マリオットホテルに設置された映画祭事務局に立ち寄り、監督のチェックインを済ま
せて開幕上映へと向かう。もう夕暮れの時刻になっている。町をあげての映画祭は会
場が点在しており、移動は無料のシャトルバスを利用して、メイン会場となるEccles
Theaterに到着する。千人強を収容する巨大な劇場だが、普段はなんと隣接する高校
の講堂らしい。たいへんな人込みで、予定時刻の6時半を一時間ばかりも遅れて開幕
した。チェロの形を模した演壇に、創設者ロバート・レッドフォードが登場。性別、
人種、階級など様々に異なるものが出会うべき映画祭であることを強調し、映画祭デ
ィレクターのジェフリー・ギルモアが、映画祭中は7,500人の町が45,000人の都市に
なると語った、らしい。というのは、私は遅れて到着するまみさんとテレンスを迎え
に劇場を離れていたので後から聞いただけなのだ。けれど、上記のレッドフォードの
言葉は、後に何度も再確認することになったインディペンデント映画の発掘・支援に
力を入れている当映画祭の姿勢を反映していて頷けるものだし、シャトルバスが日増
しに込み合っていったことから映画祭ディレクターの話も納得できるものだ。開幕上
映作品は、ドン・ロス監督の「Happy Endings」で、これも前述のレッドフォードの
挨拶にふさわしい劇映画だったようだ。途中、会場に残してきた10代の子供一人が劇
場を離れ帰り道が分からなくなったと心配する一幕もあったが、夜の11時近くになっ
て、ようやく私達一行も全員が現地に顔をそろえた。
●喜んだのも束の間・・・
翌日、1月21日。いよいよ私達の作品の初上映日だ。上映は夕方からなので、まず事
務局に行き、この映画祭の短編プログラムの選考にあたったロベルタ・モンローに紹
介される。本当にすばらしい作品で子供達の努力に深く感動したと言ってくれる。
ちょうど映画祭のドラマ部門の審査員として招待されているクリスティン・ヴァショ
ンが通りがかり、ロベルタが私達の作品を見るよう強く勧めてくれた。ヴァション氏
は、「ボーイズ・ドント・クライ」や「ストーリーテリング」などを手がけたプロデ
ューサーで、特にインディペンデント映画界で深く尊敬されている女性だ。その氏い
わく、「私もドラマじゃなくてドキュメンタリーの審査員をやりたかったのよ」。
やはり、ドキュメンタリーが最近の注目を集めているのは間違いない。
その後、映画チケットの受け取りや体調を壊している子供に薬などを買ったりしなが
ら、シャトルを使って移動している時に、たまたま携帯電話で忙しそうに話している
女性の隣に座った。映画祭では、毎日の上映プログラムやイベントを紹介したりレビ
ューする無料の新聞が事務局より毎日発行されているのだが、彼女はそのDaily
Insider紙のライターだったのだ。彼女の鞄に無造作に詰め込まれている紙面をちら
りと見ていたら、なんと第一面のレッドフォードの写った開幕上映写真の下に私達の
作品の写真が載っている。声をかけると、「写真が2枚掲載できてよかったわ」と記
事を見せてくれる。映画祭新聞の初日号の一面に、しかも短編作品が紹介されるのは
そんなにあることではないだろう。
夕方になり、子供たちもなんとか体調を整え、この日のためにDCTVのスタッフが用意
してくれた映画タイトル入りのニット帽とパーカーに全員が着替えて早めに初上映会
場のホリデーヴィレッジシネマに向かう。シネコン型の劇場で、150人前後と小ぶり
だ。コンペティションに入っているドキュメンタリー映画は全てこの劇場が主な会場
となっていたが、劇映画には大きめの劇場があてられているようだ。ちなみに映画祭
の上映会場は市内に7ヵ所、市外に6ヵ所それぞれ大小10スクリーンあって、図書館や
室内のラケットコート(!)にスクリーンを設置しているところもあった。会場の入口
には事前に送っておいたポスターがきちんと貼られていて、改めて劇場で眺めるとな
んだかうれしい。子供達もうれしそうに記念撮影をしている。午前中事務局で紹介さ
れたプレス担当のステーシー・ロバーツがわざわざ会場に来てくれ「おめでとう」と
声をかけてくれた。
ところで、今年の映画祭では長編が120本(うちドキュメンタリーは約40本)、短編が
82本(うちドキュメンタリーは12本)上映されていたが、短編は長編映画の前に上映さ
れるものと、短編ばかりを5、6本まとめて上映するものとに分けられている。
どちらの上映形態がより良いかと短編出品者は悩むものだが、長編と同時上映される
と前座のようになってしまうものの、短編を見に来ない観客を巻き込みより多くの人
に見てもらえる。実際、私達の作品は長編ドキュメンタリーの前に上映されたのだが、
合計5回あった上映はどれも完売だった。それに比べて、後日見に行った短編集の上
映では空席が目立っていた。いずれにせよ、どちらの形態となるかは映画祭側が決め
るものでこちらに決定権はない。
お客さんが入り始め、人々の熱気が劇場内に満ちてきた。既に何枚も撮っているのに、
テレンスとダニーが更に私を呼んで写真を撮ってくれという。二人ともご機嫌でポー
ズをとる。まみさんも子供達も皆いい笑顔をみせている。ダニーの母親も買いたての
デジタルカメラを手にソワソワしている。だんだん私まで胸が高鳴ってくる。大舞台
で初上映を迎えることがこんなにもドキドキするものだとは思わなかった。
映画祭スタッフに紹介され、いよいよテレンスとダニーがスポットライトの下に立つ。
二人が挨拶する。「僕らのコミュニティーについて真剣な思いで作った作品を見て一
緒に考えてほしい。」会場を埋める観客から拍手を受け、上映が始まった。私達スタ
ッフにとってはもう何十回となく見たものではあるが、大画面で見ると新鮮に映る。
もちろんまみさんたちの助けがあってのことだが、10代の子供達がよくこれだけの映
像を撮り、編集をしたものだと身内ながらに改めて思う。観客たちの反応が気になる
が、2回ほど場内から笑いが起こった以外はよく分からない。後ほどの質疑応答で反
応を確かめたいところだ。エンディングのクレジットが流れ出すと、大きな拍手が起
こる。そして、そのまま長編のドキュメンタリー「The Education of Shelby
Knox」の上映が始まる。こちらも同じようにティーンを主人公とした物語だが、保守
派の根強いテキサスで育った白人の少女が、地域の性教育や同性愛者の捉え方に疑問
が投げかけていく過程を追ったものだ。非常にしっかりとした映像で、編集もまとま
っていて話の展開も巧い。ドキュメンタリーのプロの作り手による作品であることが
よく分かる。
上映が終わって二人の女性監督マリオン・リプシュッツとローズ・ローゼンブラット
が拍手で迎えられ、質疑応答が始まった。私達も一緒にと思ったら、短編への質問は
ロビーですることになっていると指示される。自分も質問をしたいダニーはそのまま
劇場に残っていたが、テレンスとその他の子供たちは指示通りロビーで待つことにし
た。しかし、10分経っても、15分経っても誰も来ない。劇場の中での長編への質疑応
答も終わる気配がない。子供達がだんだんと待ちきれずにイライラしてくるのが分か
る。「そこは人が通るのであっちに寄ってくれませんか?」次の上映の観客誘導をす
るスタッフがそう言った途端、ついに心配していた事態が起こった。「ロビーで質疑
応答ってなんなんだよ!」気分を害されたテレンスが会場を出て行ってしまったのだ。
(続く)
■東谷 麗奈(ひがしたに・れいな)
映画批評家・ビデオ作家。ニューヨーク大学大学院映画学研究科卒業。マンハッタン
のDowntown Community TVCenter( http://www.dctvny.org/ )でドキュメンタリービ
デオやテレビ番組の制作スタッフとして数多くのプロジェクトに参加する傍ら、NYを
拠点としたアートコラムペーパー「云々」の編集長として映画批評活動を展開する。
また、これまでにJapan Society Film Center New Yorkでの映画プログラムの企画や、
古典及び新作日本映画の北米配給やDVD発売に関わる通訳、翻訳も手がけている。
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┃04┃□列島通信 ≪名古屋発≫
┃ ┃■「特集:ドキュメンタリーの過去と現在」を終えて
┃ ┃■越後谷 卓司
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●プライベート・ドキュメンタリーを再考する
昨年12月に、「第9回アートフィルム・フェスティバル」《第二期》として、「特集
:ドキュメンタリーの過去と現在」を開催した。近年ドキュメンタリーの領域で、自
分自身であるとか、家族など身近な人物を対象として捉えた、「プライベート・ドキ
ュメンタリー」と呼ばれる作品が多く登場し、その是非をめぐって議論が起こったこ
とは記憶に新しい。こうした傾向の先駆者としては、リトアニア出身の、アメリカの
実験映画作家ジョナス・メカスの名がしばしば挙げられ、日常生活の中で、身の回り
に起こった出来事を記録し、その集積を作品化する彼の「日記映画」と呼ばれる手法
が、一つの歴史的な転換となった、といわれている。この特集上映では、ドキュメン
タリーのみならず、実験映画も含めて、今日に至るその歴史をたどり直したい、とい
う欲求がまずあった。
メカスからプライベート・ドキュメンタリーへという、歴史的なパースペクティブに
異論がある訳ではない。実際、今回の「フェスティバル」でも、この「特集」に続く
《特別プログラム》「“Edge in Cinema” in Nagoya」(共同企画:スタジオ・マラ
パルテ)の最後に、メカスの『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ三歳の
年」』(1977/79年)を上映し、プログラム全体を締めくくったくらいだ。
メカスはもちろん重要だが、私が「特集」で特にこだわったのは、1980年代から90年
代へと至る時期に、石井秀人『家、回帰』(1984年)や土居晴夏『なかのあなた、いま
のあなた』(1985年)、あるいは小口詩子『おでかけ日記』(1988年)、大木裕之『遊泳
禁止』(1989年)といった作品が、連鎖的に作られていった事実を、もう一度クローズ
アップすることだった。これらの作品は、日本の実験映画の文脈において、鈴木志郎
康以降の「私映画」の系譜に連なるものと、取りあえずは言えるのだが、より率直に
私個人のあり様を表面化させた点で、異彩を放っていた。さらに小口と大木は、作家
が自己の内面を掘り下げてゆく深度によって、ドキュメンタリーと境界を接するとと
もに、作品が実験映画としては長編というべきスケールであり、それを統御するため
に必要とされる構築性が、必然的にフィクションという側面も生じさせていたことが
新鮮だった。
このことは、実験映画をコンスタントに観てきた者には、ほぼ共通する認識といえる
かもしれない。だが現在、実際に作品に触れ、それによって認識を新たにするなり、
検証あるいは反論するといった機会は、考えてみると少ない。また、リアルタイムで
作品に立ち会った時代の熱気から時間を置いて、ある程度客観的な視座に立つ時、作
品そのものの見え方も違ってくるだろう。
●8ミリフィルムを容易に上映できない環境
これら重要作品の上映機会が少なくなった原因には、それが8ミリフィルムで撮られ
ていた点も大きい。実際、愛知芸術文化センターで1996年に開催し、大木も参加した
複合型の公演『舟の丘、水の舞台』で、8ミリの映写を行った際、機材を借用した大
手の映像機器レンタル業者に、今回改めて連絡したところ、既に機材を処分してしま
った、との回答があった。「自主製作映画フェスティバル」などの企画で、8ミリ作
品の上映も行っている名古屋シネマテークから機材を借りることで、上映にこぎ着け
ることは出来たが、8ミリフィルムを8ミリフィルムとして観る機会は、より成立困難
になる状況が想起され、貴重な上映機会の貴重さが、より重みを増して感じられたの
だった。
■越後谷 卓司(えちごや・たかし/愛知県文化情報センター主任学芸員)
『映画 あるいは20世紀の思考装置』と題する著書を刊行しました。1990年代に様々
な媒体に執筆した文章を、1920年代、60年代、および80年代以降の、実験映画/ビデ
オ・アートの領域で転換となる時期ごとに編集し、まとめたものです。愛知芸術文化
センター地下2階のナディフ愛知と、名古屋シネマテークにて取り扱い中です。
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┃05┃□特別寄稿「科学映画の歴史〜東京シネマを軸として」
┃ ┃■岡田 一男
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この稿は、昨年9月26日に行なわれたneoneo坐での科学映画特捜隊(略して、「科特
隊」)による上映が行なわれた後、ゲストとしてトークされた岡田一男氏(東京シネマ
新社代表)の講演を構成したものである。構成には、司会を担当された岡田秀則氏(東
京国立近代美術館フィルムセンター主任研究官)が労にあたって下さった。心より感
謝したい。当日は満員のなか、私たちは普段見る機会の少ない科学映画の面白さを満
喫した。そして上映後の氏の絶妙な語りに導かれて、いつしか科学映画の魅力に引き
込まれていったのだった。なお当日の上映は、下記の作品である。(伏屋博雄)
『ミクロの世界』(1958年)東京シネマ、演出:大沼鉄郎・杉山正美 脚本:吉見泰
撮影:小林米作 編集:伊勢長之助 音楽:松平頼則
『潤滑油』(1960年)、東京シネマ、演出:竹内信次 脚本:吉見泰 撮影:小林米作
音楽:池野成
「岡田一男氏の講演」
●科学映画の“批判的継承者”として
いま上映された映画ですが、あれは僕が高校生の頃だったかな。プロデューサーだっ
た父(岡田桑三)からいろいろ自慢話や苦労話を聞かされました。あの頃から科学映画
は面白いとは思っていました。でも、留学したソ連(全ソ国立映画大学、VGIK)では劇
映画のコースに進んだし、当時モスクワでは新藤兼人さんの『裸の島』が話題でね、
帰国して劇映画の方へ行く可能性もありました。ひょっとしたらソ連に残って仕事を
したかも知れない。父の会社は1966年に危機を迎えたのだけど、そんな状況がなかっ
たら、僕の人生も違っていたのではないでしょうか。
帰国したのは会社が瓦解する直前で、だから東京シネマの“黄金時代”は自分では楽
しんでいません。それで僕は批判的な継承者として、旧東京シネマを否定することか
ら始めた。こんな会社いっそ壊してしまえ、そして新しい東京シネマを作ろうと父に
提案したのです。それが今の東京シネマ新社です。いま思うに、同じ科学映画をやっ
ていても、僕のところよりもシネ・サイエンス(現アイカム)やヨネ・プロダクション
の方が昔の東京シネマの雰囲気を残していますよ。
●色彩の申し子
東京シネマというのは、35mmのイーストマンカラーあってのプロダクションです。
1954年に株式会社になる前に有限会社の時代があったのですが、その頃は白黒で撮っ
ていました。父は戦前には松竹の俳優でしたが、盟友の木村伊兵衛ら写真家仲間とカ
ラー写真の研究会をやっていたり、満州[映画協会]でもカラー・フィルムの開発に
関わっていたり、カラーにもの凄いこだわりを持っていたんです。が、白黒映画には
愛情を示さなかった人でした。1970年代初めだったか、友人の科学者と古いネガ原版
のフィルム面を洗い流して、銀を取り出す実験に使ってしまった。僕もやめてくれと
は言えなかったなあ(笑)。で、有限会社時代の作品はまったく残ってないんですよ。
有限会社2年で実績が上がり始めた頃に東洋現像所(現イマジカ)の小倉[寿三]さん
という方が、アメリカからイーストマンカラーを日本に持ってこられた。それが現像
できるようになったのは1954年です。試しに、わざと灰色のものを撮るんですね(笑)。
でも色調が傾かないでちゃんと灰色に写りました。そこからが皆さんがご存知の東京
シネマというわけです。
父はよく「旧態依然たるものではない短篇映画を作ろう」と言っていました。それは
「短篇映画」であって最初から「科学映画」ではなかった。だから最初は記録映画が
主で、『粟野村』(1954年)とか、東北電力のPR映画を作っていました。「科学映画の
東京シネマ」を決定的にしたのは、やはり『ミクロの世界』でしたね。前から科学映
画の決定版を作りたいという気持ちはあったようですが、それにはいろいろな条件が
必要でした。科学映画はまずキャメラに余裕がないと難しい。同じ1954年、ドイツの
アーノルド・リヒター(ARRI)のキャメラが日本に入ってきて、東京シネマも真っ先に
2台手に入れました。まもなく高感度の白黒でトライXというフィルムが出てきました。
位相差顕微鏡でみた画像というのは、透明な物の屈折比が明暗の像となって見えます。
それを緑色光のライトで観察します。それで、高感度の白黒フィルムで撮影し、緑に
染めてカラー・プリントする。この頃の微速度撮影の画面がみんな緑色なのはそのた
めです。とにかく戦後の混乱を脱して、物質的な条件もできてきたし、会社にも力が
ついてきた。『ミクロの世界』ではヨネさん(小林米作キャメラマン)も大いに注目さ
れて、ここから一気に東京シネマの知名度が上がりました。
●顕微鏡撮影の世界
まず倍率は、フレームの中で見やすい大きさを考えて決めます。スピードは、予想さ
れる動きを何秒で見せたいかを計算して決定します。『ミクロの世界』では72時間の
連続撮影が凄いとナレーションでも言っていますが、そんなの何てことない。どうし
て大騒ぎするのかなあ。僕らなんか2週間ぐらい平気ですよ(笑)。むしろ大変なのは、
72時間でも2週間でも、とにかく被写体を生かし続けることです。光を当てるのは、
大概の被写体にとってひどいことなのです。あまり当てすぎると被写体が熱や紫外線
で弱って死んでしまう。感度が高くなったといっても、まだまだ今のフィルムよりは
低かったので、照明を強くしないといけなかった。光の影響は積算光量といって、少
なめに当てても、累計して一定量を超えるとダメになる場合が多いのです。
僕らは比較的早くフィルムからビデオに移ったけど、それはビデオの方が撮っている
最中から見られるからですね。フィルムだと撮り終えて現像してからようやく結果が
見られるわけで、その時間も惜しいのです。それから映画の中で、フレームごとに光
量が変わってチカチカする箇所がありましたね。これは当時のARRIで撮影するとカメ
ラの構造から、どうしてもそうなってしまいます。わずかな光ですが、ファインダー
の方から光が漏れてしまうのです。これは、1秒24コマの場合では問題のない量です
が、長時間露出では影響が出てしまうのです。
任意の細胞を狙ってもうまく動いてくれると限らないわけで、どの個体を狙うかも重
要です。劇映画も科学映画も同じなのですが、結局、映画とは選択に始まり選択に終
わります。やはり大事なのは動物的な勘です。細胞は「自分がいちばん元気です」と
は言ってこないので、こっちから見つけないといけません。よい個体を見つける感覚
は、これまで見てきた量で決まります。どういう問題意識を持っているかも大切です
ね。これはむしろキャメラマンの世界です。僕には谷口[常也]といういいキャメラ
マンがいるので任せていますが、実際はまとめる人間が自分で回すべきですよ。僕が
「これだ!」と思っても、肝腎のキャメラマンが眠っていたら話になりませんから
(爆笑)。
●科学映画のスタッフ論
映画史を見れば、キャメラマンが演出した作品でうまくいったものはほとんどありま
せん。でもそういう固定観念を持ってしまうと見誤ってしまうこともある。僕は、キ
ャメラマンの演出は良いことだと思います。どう日本語に訳したらいいか分かりませ
んが、英語にオーサー・フィルム(author film)という言葉がある。分業をせずすべ
て一人で作る形式ですが、これが日本では定着していないですね。東京シネマにはヨ
ネさんの演出作品もありまして、まあ、これについては、彼には「いちばん偉いのは
監督さんだ」という考えからくるコンプレックスがあったからだ、と父は言っていま
したが。
だから当然、『マリン・スノー』(1960年)は演出した野田[真吉]さんの作品なのか、
という問題もあります。科学映画に作家性は要らないという考え方ですが、外部から
いらした野田さんにはこういう東京シネマのやり方は堪えられなかったでしょう。岡
田桑三自身は集団主義の信奉者でしたが、偉いプロデューサーの左右に撮影の小林米
作、脚本の吉見泰というあまりに偉いスタッフがいて、ほとんどを3人で決めてしま
う。外部の演出家や若い人が自由に仕事できる雰囲気には欠けていました。それは今
のNHKにも通じていないかな。そういう作家を認めない雰囲気の中で、あの『潤滑
油』のラスト(油膜の干渉模様の画像が延々と続くシーン)が撮られたことをどう説明
するか…なぜあんなに長いのかなあ。下世話な話ですけど、あれは受注した長さを満
たすためじゃないですか(笑)。
●科学映画の美と自由
昔より科学映像に参入する時の障壁は低くなりましたが、自分で撮って編集してみる
と、いかに手間がかかるかが分かります。デスクトップ環境でデジタルビデオ編集が
できるといっても、実際にどれぐらいの人がやっているでしょうか。面白いとか、綺
麗に撮れるとかいっても、めったやたらに始められるものでもないでしょう。画とし
て良さそうだ、面白そうだという見通しを立ててから始める。僕自身は、これまで美
しいものを撮ってきたつもりです。
私たち東京シネマ新社のスタンスは自主製作です。スポンサーを拒否しているわけじ
ゃなくて、単にスポンサーが出てこないだけですが、そんなわけで僕らは比較的自由
です。貧乏する自由もたっぷりありますがね(笑)。スポンサーのうるさい注文は入ら
ない。科学映画が商業性と結びつくと、それは結局、製薬会社など企業の求めるもの
になってしまう。人の“思惑”が中心になると、映画は面白くなくなってゆく。
それでもまだ製薬会社は薬を作り続けるから、こういうスポンサード映画がなくなる
とは思えない。かなりコンスタントな需要が見込めます。一方で僕は面白いから映像
を作るわけですが、何年かに一度しか作れないのです。最近作ったイチョウの生殖の
映像(『種子の中の海』、2000年)も、深海の映像(『深海3572mに生きる』、2002年)
もやはり面白いから製作したのです。時間があると金がない、金があると時間がない
(笑)。その間を縫ってやってきたものです。
音楽の面ですが、『ミクロの世界』の前あたりから日本でも電子音楽が始まりました
ね。あの頃は音楽作りも大変いい時代でした。録音の何週間か前に作曲家にラッシュ
を見せて、曲を作ってもらって、オーケストラを呼んで…新曲をつけるのが一般的で
した。作曲家さんにはいいアルバイトだったでしょう。でもそれは1970年代で終わり
ましたね。今の主流は選曲です。選曲にもいい悪いはあるから、僕は決まった人たち
に依頼しています。
●これからの科学映像
いま、16mm撮影は経済面で不利ですね。現像所の立場も分からなくはないが、アメリ
カと比べると現像コストが高すぎる。フィルムとビデオを比べると、フィルムでは撮
影時には自由がありますが、映写時にはフレーム数が固定されます。デジタルビデオ
にはそれがない。撮影時にも、仕上げ時にも自由がある。中間的形態として1フレー
ムごとに自由に書き込みのできる光ディスクがあって、1980年代の終わりから僕たち
はビデオ・ディスク・レコーディングで微速度撮影をやっています。いまはハードデ
ィスクと、フォトショップのような簡単なソフトで微速度撮影が楽にできるようです。
僕はよくこの状況を料理屋に喩えます。昔は西洋料理式に、テーブルごとに別々の皿
があって、放送局用のビデオ機器、業務用のビデオ機器、家庭用のビデオ機器と別々
のテーブルにお客さんは分かれて食べていました。他のテーブルの料理を取りにゆく
のはモラルとして悪いことでしたし、考えられなかった。ところが今は中華料理屋じ
ゃないけど、いろんな料理が大きな一つのテーブルにみんな載っている。それを様々
な客が囲むような感じです。誰が何を食べてもよくなった。まあ食欲と懐具合で喰う
ものが決まるという具合です。
科学映像を特殊な世界と思わないことが大切ですね。ところが、作らない人もそう思
いがちだし、やっている人も「自分らにしかできない」と言いがちです。顕微鏡撮影
でも、劇映画スタジオの照明と同じ「方法」があって、映画としての共通の法則が働
いている、そういう信念を持ってください。我々の顕微鏡撮影では、斜めからとか、
背後から光を入れたりしますが、その組み合わせについては顕微鏡の取扱説明書には
書いてない。あくまで映画の方法です。
科学映像は、1960年代より70年代、70年代より80年代、80年代より今のほうが遥かに
作りやすくなっている。小さな予算で、誰でも作れるような世界になってきた。だか
らこそ、まったく新しい何かが出てくるかも知れない。それだけに、この100年間に
先達たちが何をやったかを知る必要がある。そのために、先輩たちの仕事がもっと自
由に見られるようにしなければならない。科学映像には、いま何ができ、何ができな
いかを見極めること、特に「いま何ができないか」を知ることが大切です。その上で、
自由に夢を思い描けるのではないでしょうか。
1950年代後半から60年代前半は、世界的な傾向として科学映画にとって確かにいい時
代でした。僕はモスクワにいたわりにはソ連の科学映画の影響はほとんどなくて、む
しろ西ドイツの科学映画に惹かれました。でもそのドイツも東西統一の瞬間におかし
くなってしまった。イギリスで盛んだった自然誌映像もいろんな問題に突き当たって
います。永遠の発展なんかないわけだから、フィルム撮影の時代には考えられなかっ
た場所、伝統的な映画産業国でない国からも素晴らしい映像が生まれるかも知れない。
デジタルビデオの時代となって、スタート・ラインはどこも同じはずですよ。
(聞き手・構成:岡田秀則)
■岡田 一男(おかだ・かずお)
1942年生まれ。東京シネマ新社代表。科学映画、先住民族文化映像のプロデューサー、
ディレクター。父の岡田桑三は、戦後日本の科学映画を代表するプロダクション、東
京シネマを率いたプロデューサー。
┳━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃06┃□neoneo坐通信
┃ ┃■2月後半の上映
┻━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
neoneo坐の2月後半の上映も、エキサイティングな企画が目白押し。皆様には、お得
な一般会員(2000円、1年間有効)になることをお勧めします。会場はいずれも神田・
小川町のスペースneo((都営新宿線小川町駅B5出口より徒歩1分、JR御茶ノ水駅聖橋口
より徒歩5分)です。詳細と地図は下記のneoneo坐サイトをご覧下さい。
http://www014.upp.so-net.ne.jp/kato_takanobu/neoneoza/index.html
■「山ドキ!東京予備校」のご案内
山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品された世界各国の若手作家の秀作を上映する
「山ドキ!東京予備校」。2月18日(金)は午後8時スタート、2月19日(土)は午後2時よ
り2プログラムを上映します。両日ともBプログラム上映後、李林監督のインタビュー
・ビデオ(約20分)を特別上映。ヤマガタ名物「芋煮」を用意してお待ちしております
!(無料・先着順)
2月18日(金)
(Bプログラム:pm8:00〜)
『ショートジャーニー』(2003年/VIDEO/5分/タイ・監督:タノン・サッタルーチ
ャウォン)
『350元の子』(2001年/VIDEO/85分/中国+アメリカ・監督:李 林)
☆終了後、李林監督のインタビュービデオ上映あり
2月19日(土)
(Aプログラム:pm2:00〜)
『一緒の時』(2002年/VIDEO/49分/中国・監督:沙 青)
「雑菜記」(2003年/VIDEO/43分/台湾・監督:許 慧如)
(Bプログラム:pm4:00〜)
『ショートジャーニー』(2003年/VIDEO/5分/タイ・監督:タノン・サッタルーチ
ャウォン)
『350元の子』(2001年/VIDEO/85分/中国+アメリカ・監督:李 林)
☆終了後、李林監督のインタビュービデオ上映あり
料金:各プログラム 一般1,500円/会員1,000円(入会金2,000円・1年間有効)
上映へのお問合せ:090-3271-5280(佐々木)
■短篇調査団(16mm上映/鑑賞無料)(3) ひなの巻…
2月23日(水) 20:00〜
『ひなまつり 日本人のこころ』
1986年/25分/カラー/ヨネプロダクション/企画:資生堂/演出・脚本:杉山正美
/撮影:瀬川浩・春日友喜
平安時代から現代を貫く「日本女性の生活に根ざした美意識」をテーマに、庶民のひ
なまつり、大名のひなまつり、京風のひなまつりなど様々な角度から『ひなまつり』
をとらえてみた。
『涅槃―雛―』
1975年/10分/カラー/キングレコード/演出・脚本:実相寺昭雄/撮影:中堀正夫
日本独特な芸術である雛人形を通して人間社会の業、祈願、期待を見つめようとした。
人形の発生であるひとがた、呪術用具としての雛形が近世の雛人形に変って行く歴史
をたどり、精神の形成をみる。
『生活と寸法 モデュラー・コーディネーション』
1962年/24分/カラー/東京シネマ/企画:大成建設/演出:竹内信次/脚本:吉見
泰/撮影:長谷川博美
規格品の大量生産は圧倒的な現代の流れ、私たちはその流れに押し流されてばかりは
いられない。私たちは求める。現代の新たな秩序と調和、その新しい寸法調整。モデ
ュラー・コーディネーションは狭い敷地の狭い部屋、住まいを越え、道路計画・都市
計画にも及ばねばならない。
『帝国ホテル 失われたライトの遺産』
1968年/29分/カラー/グループ現代/企画:帝国ホテルを守る会/演出・脚本:小
泉修吉/撮影:岩永勝敏
アメリカの生んだ天才建築家、フランク・ロイド・ライトの代表作と言われる帝国ホ
テル旧館は、多くの人々の愛惜の声にも拘わらず取り壊されたが、それは果たして真
に価値あるものであったか?ライトとその建築の業績を知る意図によって製作された。
【料金】鑑賞無料!【お問合せ】清水 TEL:080-5468-3251
■小川紳介のコスモス〜小川プロの仕事(第5弾)
2月27日(日)
program1 (13:30〜14:24)
●『映画作りとむらへの道』(1973年、16ミリ、白黒、54分)
製作:小川プロダクション、監督:福田克彦 撮影:川上皓市
「辺田部落」制作時の小川プロの姿を描き出した、彼ら自身の手によるドキュメント。
当時助監督だった福田克彦の第1作。長らく封印されていた本作は完成後27年を経て、
1999年に初公開された。
program2(14:40〜17:06)
●『三里塚・辺田部落』(1973年、16ミリ、白黒、146分)
製作:小川プロダクション、監督:小川紳介 撮影:田村正毅
“闘い”から“闘いの中の日常へ”へ。固い団結を誇る辺田部落に棲みついたキャメ
ラは農民の声を聞き撮りしてゆく。本作品は山形へ移行する小川プロの分水嶺となっ
た記念すべき傑作。
※17:20〜 トークと飲み会・・・2000円(飲み物+大皿料理つき)
ゲスト:黒木和雄(『美しい夏 キリシマ』『父と暮せば』監督)
料金:当日―1プログラム 1500円 / 通し券(1日券):2500円
一般会員―1プログラム 1200円 / 通し券(1日券):2200円
(一般会員には入会金2000円で当日加入できます。1年間有効)
お問合せ:090-5538-9447(伏屋)
※30-2号へ
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■責任編集 伏屋博雄
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