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[ たびそら+写真 No.109 柔らかく頼りなげな右手(2) ]

発行日: 2004/5/25



 次の日の朝、キョウコさんは僕の部屋のベッドの中で寝息を立てていた。なんて風に書くと、ずいぶん思わせぶりだが、「そういうこと」ではないのである。その前の事情というものを取っ払って事実だけを書くと、「そういうこと」になってしまうのが面白くて、書いてみたのだ。

 もちろん僕らは別々の部屋に泊まっていた。朝になって彼女が僕の部屋の扉を叩いたのだった。
「今日の夜の列車で、ドイツのフランクフルトに行くの」と彼女は息を弾ませて言った。「だから朝ご飯を一緒に食べて、美術館に行こうって誘いに来たのよ」
「いいですね」と僕は言った。「どうせ暇だし、今日の予定だって立てていないから」
「ごめんなさいね。昨日も言ったけど、私早起きなのよ。まだ寝たりないんだったら、適当に時間を潰してるから」
「大丈夫ですよ。それじゃ、朝食を買いに行きましょう」

 僕らはユースホステルのすぐ近くにあるスーパーマーケットに行った。このスーパーにはチーズやハムやサラダを必要な分量だけ売ってくれるコーナーがあって、これが便利なので何度か利用していたのだ。
 僕らはパンを何種類かとハムとスモーク・サーモンとサバの酢漬け入りサラダを買った。二人合わせても300円足らずの買い物だった。チェコのスーパーで売られている食料品はどれも安く、味も良かった。チェコに来る前に立ち寄ったオーストリアのウィーンでは、日本並みの物価の高さに直面していたから、なおさら安く感じられた。

カレル橋の上でバイオリンを弾く男

 張り切って買い物をしていたキョウコさんの顔から血の気が引いていったのは、レジで会計を終えた直後だった。彼女はその場によろよろとしゃがみ込んでしまった。どうやら貧血を起こしたらしい。
「・・・たぶんお腹が減っているからだと思うの。何か食べたら良くなると思う」
 キョウコさんは買ったばかりのパンとチーズを口に入れ、ミネラルウォーターで喉に流し込んだが、それでも貧血の症状は収まらなかった。

「今日は何時に起きたの?」と僕は訊ねた。
「5時半」と彼女は言った。
「そりゃ寝不足だよ。昨日だって夜中まで飲んでいたじゃない? しばらく眠った方がいいよ」
 僕がそう言うと彼女は頷いた。彼女はもう既に自分の部屋をチェックアウトしていたので、僕の部屋のベッドに眠ることになった。きっと旅で張り切り過ぎたのと、寝不足が重なったのだろう。本当にごめんなさい、と小さな声で言って、彼女は布団を被って目を閉じた。


 彼女を一人にしてどこかへ行くわけにもいかないので、僕は部屋の中で写真の整理をしたり、カメラの手入れをしたりして過ごした。昼間のユースホステルはとても静かだった。他の宿泊客はほとんど出払っているらしく、掃除のおばちゃんの話し声ぐらいしか聞こえてこなかった。

 彼女は僕に背を向けて静かに眠っていた。規則正しい寝息だけが微かに聞こえてくる。僕らは二日前に出会ったばかりで、二晩続けて酒を飲み、饒舌に話をした。そして今、彼女は無防備に僕の部屋で眠っている。偶然というのは面白いものだな、と僕は改めて思った。

 2,3時間眠った後、彼女は上体を起こしてスーパーで買ってきた食料を少しだけ食べた。しばらく休んだおかげで、彼女の頬には赤みが戻っていた。貧血は大丈夫だけど、頭痛が治まらないというので、僕は持っていた頭痛薬(バンコクで買ったものだ)を彼女に飲ませた。

 それから彼女が僕の撮った写真を見たいと言ったので、彼女の膝の上にノートパソコンを置いて、保存してある写真をスライドショーにして見せた。彼女は無言のまま写真を見続けた。
「気に入らない?」と僕は訊いた。
「ううん。そういうわけじゃないよ。何て言ったらいいのかわからないだけ。私って人を誉めることが苦手なの。人から誉められることも苦手。『素晴らしい』とか『とてもいい』とか、簡単に言ってしまうと価値がなくなっちゃう言葉だと思うのね。私は誉められるよりも叩かれて育った子だから」

「ジャイアント馬場とアントニオ猪木みたいだね」
「なにそれ?」
「馬場と猪木は共に力道山の弟子なんだけど、力道山は猪木には徹底的に厳しく、馬場は褒めて育てたんだって。二人の個性の違いを見抜いていたらしいんだ」
「じゃあ、私は猪木タイプってことね。だけど、あなたの写真悪くないと思うわ」
「そう?」
「気を悪くしないでね。私こういう言い方しかできない人なの」
「気にしてないよ」
「普段はもっとちゃんとしているのよ。今日は特別。もし一人だったら、こんなところで熱は出さなかったと思う。たぶん日本に帰って旅の緊張感がなくなってから、具合が悪くなったと思うの。安心しちゃってるのね。あなたに甘えているんだと思う。ほんと、手のかかる子よね。今日だって一日何も出来なかったし・・・」

 僕はそんなことは別にいいんだと首を振った。どうせ予定のない旅をしているんだから。
「美術館は明日にでも行ってみるよ」
「本当にごめんなさい。こういう姿って仲のいい友達にも見せたことがないのよ」
「それじゃ疲れるでしょ?」
 僕がそう言うと、彼女は小さく首を振った。
「私ね、子供の頃から『負けたくない』って思ってたの」
「負けたくないって、何に対して?」
「何に対してだろう。よくわからないけど・・・自分にかな。ずっと『強くなりたい』って思っていたわ。周りの人からは『キョウコは喋らない方がいいのに』って言われるの。自分で言うのも何だけど、わたしって普通の女の子っぽい顔してるでしょう? だから気が強いようには見えないらしいのよね。でも、本当は負けず嫌いで頑固なのよ。それでいろいろと損をしてきたと思う」

 僕がキョウコさんと一緒に過ごした時間はそれほど長くはなかったけれど、彼女が相当に頑固な一面を持っていることはよくわかったし、それが周囲に受け入れられなくて苛々していることも感じた。
「だから私、生まれ変わったら絶対男になるって決めてるの」
「でもその前に貧血は治さないとね」
 僕がそう言うと、彼女はバツ悪そうに笑った。彼女は遅い昼食を食べ終えると、再びベッドに横になり、夕方まで眠った。


 彼女が回復すると、僕らはユースホステルを出て、腹ごしらえをするためにクレープ屋に入った。今は食欲なんてないけど、クレープだったら食べられそうだと彼女が言ったのだ。そこで僕らはフルーツ入りクレープを食べ、アップルジュースを飲んだ。そしてフランクフルト行きの夜行列車に乗るために、プラハ駅に向かった。

 プラハ駅には珍しい格好をしたバックパッカーのカップルがいた。女性の方は純白のウェディングドレス、男性の方は黒いタキシードという結婚式スタイルで、なおかつ男の方は巨大なバックパックを背中に担いでいるのである。大きな寝袋も括り付けてある。
 これまでも世界中でいろんなバックパッカーに遭遇してきたけれど、これには驚いた。教会で結婚式を挙げて、そのまま新婚旅行に出るつもりなのだろう。それにしても無垢で白いウェディングドレスと薄汚れたバックパックというのは、たぶん最も縁遠いところにあるコーディネイトだと思う。だからこそその取り合わせは奇抜で面白く、駅員も乗客もみんな足を止めて二人の姿をぽかんと見送っていたのだった。

共和国広場で民族舞踊を踊る

 フランクフルト行きの特急列車が停車しているホームには、制服を着た駅員やスーツケースを持った旅行者が忙しく行き来していた。発車にはまだ間があったので、僕らはホームのベンチに並んで座った。隣のベンチでは、別れを惜しむ若いカップルが両手を握り合って、お互いを見つめていた。南極の分厚い氷河も溶かしてしまいそうな熱い視線だった。

「何か言い残したことはありませんか?」
 僕はキョウコさんに訊ねた。
「永遠の別れってわけでもないでしょう?」
「そりゃまそうですけど、もう二度と会わないってことだって十分あるわけだから」
 僕がそう言うと、彼女は小さく頷いた。それから僕らはしばらく黙って目の前の列車を眺めた。
「でもね・・・」
 彼女が口を開いた直後、列車のドアがいっせいにバタンと大きな音を立てて閉まった。チェコの列車はベルも場内アナウンスもなく、いきなりドアが閉まるらしい。彼女は慌てて荷物を掴んで、列車に飛び乗った。幸い閉まったドアは手で簡単に開けることが出来た。彼女は自分の座席に着くと、窓を開けて顔を出した。

「ありがとう。三日間楽しかった」と彼女は言った。
「僕のほうこそ」
 夜行列車は静かに動き始めた。発車のベルも警笛もやはりなかった。彼女は窓から右手を差し出した。僕はそれを握った。その手は白くて柔らかく、彼女自身よりもずっと頼りなげだった。その感触が一瞬僕の胸を締め付けた。

「さようなら」
 僕は列車の動きに合わせてホームを歩きながら言った。
「さようなら」
 彼女も言った。「また会いましょう」も「帰ったら電話ちょうだいね」もなし。ただの「さようなら」。でも、それでいいんだと思った。旅人同士の別れというのは、そういうものなのだ。
 列車が徐々にスピードを上げていくにしたがって、彼女の顔は小さくなっていった。僕は立ち止まって小さく手を振った。やがて列車は闇の中に吸い込まれていった。

 僕は薄暗いホームにぽつんと取り残された。また一人きりになってしまったんだ、と思った。
 彼女に出会う前よりもずっと深い孤独の中に、僕は取り残された。




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