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くまから・かまから

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くまから・かまから vol. 180

発行日: 2008/9/18

■―― 宮古島方言マガジン ――――――――――――――――――――■
 
    くまから・かまから  第1・3(木)発行 《vol.180》 2008.9.18
 
■―――――――――――――――――――――――――――――――――■
   もくじ
   「『き゜むかぎ』という言葉」     Motoca
   「ICU3!」            神童
   「夏の思い出」            R
   「鳳作忌」              ビートルズ世代の
                        サラリーマン
   「編集後記」             松谷初美
 
     こんにちは〜。
    今年は台風はもう来ないかねーと思ったいたら、
    ゆらり(迷走)台風が、まわっていますね。
    沖縄にもかかっていたようですが、大丈夫でしたかー?
    さて、180回目のくま・かま、夏の話あり、秋にふさわしい
    話あり、まさかの三回目の話まで多彩な内容でお送りします!
 
==================================
「『き゜むかぎ』という言葉」       Motoca(平良下里出身)
 
 「生徒が みぃんな、き゜むかぎだったさ。だから本当に、すばらしい
体育祭になったよ。」
 
 5年前、勤務先の中学校の体育祭を終えてきた父が、電話で私にこう言
った。それ以来、「き゜むかぎ」という言葉がずっと、私の心に引っかか
っている。
 
 「き゜むかぎ」は、共通語には「心優しい」と訳されることが多い。
「き゜む」は心、「かぎ」は「美しい」。だから直訳すると「心美しい」
なのだが、意味的には「優しさ」が前面に出されるのだと思う。
 
 今から5年前、2003年。当時、父は中学校の校長をしていた。体育祭の
数日前にに60歳の誕生日を迎えた父にとっては、教員生活最後となる体育
祭だった。父の誕生日からさかのぼることさらに一週間、あの台風が宮古
を襲った。宮古の生活基盤に多大な損害を与え、最大瞬間風速74.1m/sを
記録を残した、 2003年台風14号・マエミーだ。
 
 宮古郡内の小中学校では、その翌週または翌々週の週末に、運動会・体
育祭を予定していたところが多かった。しかし、暴風は学校施設をもいろ
いろと破壊していった。どこの学校の話を聞いても、校舎の窓ガラスは割
れ、校庭の木々はなぎ倒され、散々たる状況だったという。台風が去った
後は暴風の後片付けと、運動会・体育祭の準備に追われることになった。
 
 父のいた中学校も、やはり同様の状況だった。体育祭は、台風から10日
後の日曜日だった。台風の後片付けは、生徒・職員総出での作業となった。
体育祭の直前まで電気/電話回線が復旧しなかったため、日中は窓からの
明かりだけで授業を行った。体育祭の練習には、近所の方が発電機を貸し
てくれたらしい。体育祭に向けての準備には、生徒のご父兄にも加勢して
もらったそうだ。
 
 先日、父にあのときのことをを回想してもらったときの話。

 「生徒も、父兄の皆さんも、そして学校の職員も本当によく動く。自分
の作業を、責任を持ってやる。誰も手抜きをしようともしないし、ひと言
の文句をも言わない。そしてそれが、何も特別なことではなくて、普通の
こと。いつもそういう雰囲気だった。だから、あの台風から体育祭を無事
に終えるまでの行動を見て改めて、彼らの結束力を、強く感じたのだと思
う。」
 
 その感動から出た言葉が、「き゜むかぎ」だった。5年前、勤務先の中
学校の体育祭を終えてきた父から、電話で聞いた言葉。酒の飲めないはず
の父が、ほろ酔いしたように何度も、「き゜むかぎ」という言葉を繰り返
していた。いつもは口数の少ない父なのに、長電話になった。そしてずっ
と、台風から運動会までの話をしていた。
 
 あのとき、こんなことも言っていた。「それは、小さな地域社会だから
こその素朴さでもあると思うわけさ。市内の子供だったら、ああはならん
さあね。あんたなんかも、ああいう環境で育てたかった。」
 
 あば(あれ)、そこまで言うか。うりゃー(それは)つまり、ばんたー
「き°むかぎ」やあらんとのばーな?(私らは「き°むかぎ」じゃないと
いうことか?)父、答えて曰く、「・・・して、人が多くいたら、自分ぐ
らいは手抜きしても大丈夫、と考え易いさいが。」
 
 まあ確かにね、うちあたい(心当たり;沖縄方言)もいたします。市内
はやっぱりちょっと都会なのだ。真面目はかっこわるい、という風潮はあ
った。でもそう言われて、私はちょっと悔しかったのだ。いや、悔しかっ
たというより、羨ましかったというべきか。
 
 だからそれ以来、「き゜むかぎ」という言葉が、私の中に引っかかって
いる。ばんまい(私も)、「き゜むかぎ ぴとぅ(人)」を目指そう、そ
うなりたい、とずっと思っている。
 
 共通語ではただ「心優しい」とだけ訳されるが、もっともっと深い。そ
の優しさを表出させる人の素朴さや力強さといった、バックグラウンドま
ですべて含まれているような感じがする。
本当に素敵な言葉だ。
 
 そして、そんな「き゜むかぎ」人たちに囲まれて、充実感とともに定年
を迎えることができた父は、本当に幸せ者だと思う。ことあるごとに教育
者が攻撃されやすい時勢だからこそ、特に。あのときの生徒の皆さんには、
娘としても、お礼を申し上げたい。
 
 あなたたちの き°むかぎさ のおかげです。 
本当にありがとうございました。
たんでぃがー、たんでぃ。
 
==================================
「ICU3!」               神童(平良島尻出身)
 
 性懲りもなくICUの世話になってしまった。
うむぅくとう にゃーん んまり。(馬鹿じゃなかろうか?まず!)

 手慣れたもので心電図の波形を見ながら看護師が担当医師に連絡を取り
まくる。早朝7時。ひやっとした感触で電極のシールが貼り付けられてい
く。心電図を記録する機器の無秩序、若しくは乱れうちのような警報音。
んぎゃます!(あーーーっ!五月蠅い!)
 
 それどころじゃない!左手甲の静脈に緊急点滴。その後、なんとかピリ
ンとやらを噛み砕し飲み。罰んだかに みっずぅ ぬまさじゃーんつぁ。
(例によって水分を与えられない。)ひたすら苦いなんとかピリン。
ぬかーぬか かんだりみーる?ごーらぬ んぎゃさぁ まにあーんまぁ!
(丁寧に噛もうものなら苦瓜の比にならない苦さが口中に広がる。)
ここは3回目の経験者。適当に3回ほど噛み砕いて無理に飲み込む。これ
で苦さを抑えることが出来る。
 
 連絡を受けた心臓担当の医師が告げる。上着を脱がして!指示を受けた
看護師。やおら鋏を取り出し丸首のTシャツに当てる。待てマテ!お気に
入りど!なんとか脱がしてもらう。脱がせられながら大人の分別をもって
脱衣に協力すべく身をよじる。看護師が叫ぶ。動かないで!・・・やれや
れ。
 
 ストレッチャーに寝かされ当方の視界に入らない救急室の隅で医師がひ
そひそ話し。
 
 心臓の血管が詰まってるはずだから緊急にカテーテルを入れて詰まって
いる部分に風船なんたらを入れて詰まりを解消する手術を行うらしい。大
急ぎで心臓手術を行うレントゲン室に連絡を取りまくっている。
 
 若手の医師が小さな声で説明してくる。手術になるかもなので尿道を確
保します!なあーーーに言ってんのぉ、お前!やらなくていい。却下だ却
下!阪急近鉄沿線を患ったときに懲りているから、やめてくれえ!
 
 聞き入れられない。無理矢理尿道を確保されてしまう。痛いしよ!ちょ
っと咳き込んだだけで容器に尿が流れ出る。憶えておけよ、てめえ!して、
どうでもいいけどパンツあげてくれ。後ろのほうね。ケツがめくれたまま
どぉ!お構いなしだ。けっ!
 
 大勢に付き添われてストレッチャーが移動していく。救急診療室を出て
左に曲がり右に曲がり更に右に曲がって直ぐさま左。そのまま直進して突
き当たりが心臓のカテーテル手術を行うレントゲン室。2度目だぜ!
 
 レントゲン室到着。おう、たー坊!久しぶり!知り合いの看護師に声を
かけるも忙しくて目で合図を返すのがやっとだ。そりゃーそうだよな。
ばやぁ やんむぬやーば たーっふぃぬ すかま。(こちとら患者で痛が
るのが本業。)片や患者が動かないように所定の位置に移動するのが看護
師の仕事だもんな。
 
 ちょっと上に移動して!背中を微妙に動かしてずりあがる当方。医師の
罵声が飛ぶ。患者を動かせるな!看護師全員でシーツを掴んで20cmほ
ど移動。カテーテルを挿入する右腕を診察台から斜め45度に伸ばして麻
酔を待つ。
 
 ちょっと痛いよ!ちくっ。右手首が確かに痛い。
 
 あれ?医師が狼狽えている。あしぃ ふぉーずぶんなぎん てーぷぅ 
ぱずしばどぅ あば、ゆがたみ!(4時間後ガーゼを外すと血管から5ミ
リほど外れていた。)更に麻酔が続く。ちょっと痛いよ!今度は右の肘内
側だ。どうやら命中らしい。
 
 カテーテルが挿入されていく。例によってレントゲンカメラが邪魔でモ
ニターが見えない。血管造影剤を左官に注入してレントゲン映像で血管の
修理箇所を探している。造影剤は心臓の辺りが暖かくなるので注入の度合
いが解る。
 
 医師が告げる。ニトロ入れよう!
 
 良かったよトトロじゃなくて。あんな宮崎アニメのお化けを心臓に入れ
られたら堪らないものな。でも待てよ。ニトロ?おう!西部劇で荒くれ者
が金欲しさに慎重に運ぶ代物か?にとろぐりせりん!慎重に扱えよ。俺の
心臓だからね。ぱずかすんじゃねえぞ!
 
 ニトロは微妙に臭うね。アルコールのような匂いが鼻腔をくすぐる。ニ
トロで血管を瞬間的に膨らませて更に詳細な検査を行ったらしい。後で聞
いたけど。
 
 さて、目出度く血管の詰まり箇所もなくてICUへ。
 
 奥の硝子張りの個室に一人。手前の3名収容の大部屋?に当方一人。計
2名。
 
 なによりケツがめくれたままのパンツが気になる。引き上げようにも左
手は点滴の針が2本も刺さって動かせない。さらに心電計の電線が邪魔だ。
右手に至っては・・・。
 
 右は右手首からカテーテルを入れられなかったものだから右の肘内側を
四角い箱+幅広のセロハンテープでがちがちに巻かれて、更に箱の内側に
風船を入れ、たやばーき空気を入れて圧迫している。止血らしい。30分
に1回ずつ気圧を下げて4時間かけて止血するらしい。右腕が痺れる上に
全くもって曲がらない。パンツあげるどころの騒ぎじゃない。
 
 最近、中学校で2年生の腰パンを注意した上級生が大乱闘を起こしたら
しいじゃないか。こちとら、ちびるんぬ まんでぃ うらまい!(こちと
ら腰パンどころかめくれちまってるぞ!)ってなもんだ。パンツの意味無
いからね!・・・でも良かったよ、中学2年じゃなくて!
 
 夜中に両サイドにそれぞれ入室して満杯になるICU。左は重症。病状
は当方と同じく狭心症。心電図機器の警報音がときどき途切れる。いよい
よもってやばい状況らしい。
 
 医療スタッフからは患者が全員丸見えなのに対し、患者はサイドをカー
テンで仕切られていて音声のみ。当方は翌日午後、一般病棟に移動。
 
 入室と同時に右隣の80を超えた老人が話しかけてくる。狩俣のおじい
だ。で、知り合いの父親。一生懸命に喋っているものの殆ど聞き取れない。
口でもごもご。通訳が必要だ。
 
 消灯時間をもって就寝。午前を過ぎた頃、右隣の老人に異変が。
 
 枕元の電気を点けてごそごそし始める。固めのビニール袋を取り出して
中を探っている模様。袋の中から更に固めのビニールに包まれた内容物を
取りだして包装のビニールを外している。しばらくするとポリポリバリバ
リ!つまみ食いだ。いや、盗み食い?違うな、隠れ食いだ!糖尿だろ?
おっさん!
 
 家族や医療スタッフに気付かれない深夜にお菓子を貪り食う老人。
 がっさぁがっさぁ ぐっちゃぐっちゃ かさかさ がう!むっしゃむっ
しゃ むっちゃむっちゃ ぐっふぁぐっふぁ なんみなんみ ぐず!あた
まんてぃ いすぅくぅ どぅっふぁどぅっふぁ。いぴぃなーりゃ なまり
ってぃ またどぅ がっさぁがっさぁ。(ごそごそ ぐちゃぐちゃ ぱり
ぱり ぺろん。ぽりぽり ばりばり ぺろぺろ ごっくん!突然咳きこん
でげほげほ。しばし休んでまたごそごそ。)
すげっ!擬音の方言バージョン。日本初じゃなかろうか?
 
 30分ほど続けて再び眠りにつく老人。監視カメラが必要だな、こいつ
には!糖分命の坂田銀時みたいなやつだ。こいつ、昼の3時頃にも同じこ
とをするからね。何処に隠してあるかサーよ、お菓子を!パンツの下だっ
たりして。
 
 延べ2昼夜に渡って老人の隠れ盗み食いの音声のみを聞いたところで大
部屋を更に移動。病棟3階の東端の大部屋に寝かされる。ここで担当のナ
ースが変わる。チャンスだ!
 
 左腕に刺さっている点滴の針2本の撤去を申し入れてみる。意外とあっ
さりOK。話せる看護師だぜ。見覚えあると思ったらICU2でハルおば
あにトンでもない情報を吹き込んでた奴だ。ちょっと可愛いし!
 
 残るは携帯式の心電図モニターのみ。こいつが厄介な代物。電極が外れ
た途端、モニタリングされているためナースステーションから看護師が飛
んでくる。やれやれだぜ!
 
 もし逃亡を図るのなら同室のケイコウおじいに装着するか、通りすがり
の犬に装着するか、だ。・・・犬は無理かな?
 
 ケイコウおじいは人工透析のために入院しているらしい。かなり長いこ
と入院しているらしく病棟のあれこれを教えてくれる。して、今日はトー
ケツがあるから午後から大変さーね。と話す。おーーーーいっ!凍結して
どうする?ケイコウおじい!透析だろ、投石!
 
 このケイコウおじい。医師の回診時間をすっとぼけて院内をうろつき次
の回診は2週間後だからね!と孫のような看護師に叱られる始末。
 
 シャワーの日なので心電図の電極を外して浴室へ。さっぱりしたところ
で確信犯的に携帯式心電図の装着を意図的に忘却。談話室でクイズヘキサ
ゴンを観ているところをナースに踏み込まれる。なんで付けないの?いち
いち五月蠅い人たちだ。
 
 就寝前に談話室で歯磨き。うがいをしているところを看護師に呼ばれる。
病室の辺りで看護師多数が当方を捜している。談話室に5名の看護師がな
だれ込んでくる。○○さん、大丈夫ですか?苦しくないですか?
 
 心電図のモニターの波形が心筋梗塞らしい。当方至って平気。知ってる
もんね。ICUで経験済みなんだな。歯磨きをするとその振動を電極が拾
って心電図の波形が暴れるんだな。
 
 原因が解ったところで5名の看護師に部屋に戻るよう指示される。いい
じゃん、なんでもなかったんだから!聞き入れてくれない。兎に角病室に
戻りなさい!いいから戻れ!の命令口調の一点張り。それも5名で合唱。
バス・テノール・アルト・ソプラノ一人余りってなもんだ。あ、一人は合
唱指揮か?
 
 いいか?おめーら。こちとら一人で貴方達は5名。マイノリティを虐め
て楽しいか。自民党か、お前ら。数の暴力だろ!そもそもお前らがマイノ
リティなんだぞ、病院では。医療スタッフの人数を遙かに上回る患者の存
在を知っているのか、控えおれい!
 
 月曜に入院して土曜に退院。なんか学校みたいな入院だぜ。あ、2学期
症候群かも?9月1日入院だものな。
 
 そうそう。会社を定年退職した先輩に出くわしてしまったんだな。母親
の見舞いに来たらしい先輩。
 
 どうした?
 職場体験です!
 
 元気に答えてあげたよ!仕事の内容は患者だからね。
 
==================================
「夏の思い出」                R(平良西里出身)
 
 6月末に北海道への出張がありました。
 
 私の出張は、どこに行くのも日帰りで済ませられる内容ですが、せっか
く北海道まで行くのだからと思い、1泊することにしました。
 
 東京で乗り継ぎ、北海道への飛行機を待つ中、30年前、中学3年生
(北中)の時に訪れた北海道の風景と夏休みの1ヶ月間を共に過ごした豆
記者の仲間のことを思い出していました。
 
 本土・沖縄豆記者交歓会は、太平洋戦争の結果、米国の施政権下にあっ
た沖縄の早期復帰を願って、東京都中学校新聞教育研究会の皆さんが、本
土と沖縄を結ぶ青少年親善運動の一環として昭和37年に双方の中学生を
交歓しあったのが始まりということで、んなまがみ(現在まで)続いてい
る事業です。
 
 私は、本土復帰5年後の昭和52年、第16次豆記者団、26人の一員
として参加しました。第16次は県内各地から集まった中学生20人、小
学生6人というメンバーです。宮古からは、平良中、北中、福嶺中、佐良
浜中各校から2人の計8人の参加でした。
 
 夏休みの1ヶ月間をかけて、北海道(釧路・根室・函館)⇒東京⇒長野
(軽井沢)⇒三重⇒愛知県という各地を訪ね、その間、5家庭で民泊(ホ
ームステイ)を行いました。今とは違ってまだ沖縄への偏見があったとは
思いますが、民泊した家庭はみな親切に受け入れてくれました。
 
 夏でもストーブが必要な北海道。北方領土問題。阿寒湖のマリモ。沖縄
の親戚のおじさんと んーんー(そっくり)だったアイヌ人。函館の小中
学生との交歓で行った楽しいオリエンテーリング。函館山から見下ろした
夜景。夜行列車で通過した青函トンネル。国会議事堂の食堂で食べたカレ
ーライス。ヤクルトスワローズの選手へのインタビュー。軽井沢の緑豊か
な空気。白樺並木。大変緊張した平成天皇・皇后両陛下となられた皇太子
・皇太子妃の前での挨拶。伊勢神宮。鳥羽水族館。海女さん。・・・
 
 その体験の ぴてぃーつ ぴてぃーつぅ(一つ一つを)移動中、また、
宿泊先で記事にし、自分で名前をつけた個人個人の新聞にまとめて行きま
した。みんな必死になって取組み、行程中、4回ほど新聞を発行しました。
 
 また、訪問先では、当番制で挨拶をしていたため、次の訪問先の挨拶担
当となると、前の日は、挨拶内容もまとめなければなりません。舞台を務
めるメンバーはなお大変です。具志頭中から参加した4人は「汗水節」を、
若狭小から参加した3人は「鳩間節」を、また、空手の演舞の披露も行く
先々でおこないました。最後には、全員で「てぃんさぐぬ花」を歌ったの
ですが、宮古のメンバーは だいばん(大きな)声で参加しました。
 
 各地で沖縄を紹介する豆「記者」としては、本土各地での貴重な体験と
ともに故郷・沖縄を強く意識することとなりました。
 
 30年経った今でも当時覚えた「汗水節」(作詞:仲本稔 作曲:宮良
長包)の歌詞を口ずさむことができます。その頃にはわからなかった歌詞
の意味が理解できるようになりました。
 
   汗水ゆ流ち 働ちゅる人ぬ
   〈汗水流し働く人の〉
   心嬉しさや 他所ぬ知ゆみ 
   〈その心の嬉しさは 働かない者は知ることがない〉
   エイヤサーサー 他所の知ゆみ
   (囃子)しゅらーよー しゅらーよー しゅらー  働かな
 
 それから15年後の平成4年に豆記者交歓会30周年記念式典に参加す
るため私が函館での民泊の際お世話になった「杉本先生」が来沖されまし
た。
 
 杉本先生は、ご自身も奥様・息子さん、娘さんと歯科医をされているご
一家で、昭和52年に函館豆記者交歓会を発足させて以来ずっと函館交歓
会の会長をされていました。毎年沖縄からの豆記者を函館に受け入れ、
16年間で700人の沖縄の子どもたちとの交流があったということでし
た。沖縄に到着された日に私は娘(当時4歳)とともに杉本先生と夕食を
とり15年前の懐かしい話に花を咲かせました。
 
 杉本先生は函館へ帰る時の様子を豆記者交歓会の30周年記念誌に以下
のように綴っています。
 
 「(略)・・その時、ふと私にはこの沖縄の空の下に700人の子ども
たちがいるのだと思うと満たされた幸福感でいっぱいになりました。別れ
を惜しみながら手を振り合ってさようならと・・・別れはやっぱり辛いや
と思いながら機上の人となった。知らず知らずのうちに口元から聞こえて
来るのは「今日の日はさようなら」の歌でした。「いつまでも絶えること
なく友達でいよう。明日の日を夢見て希望の道を」とね」
 
 そしてその8年後の平成12年、小学6年生になった娘は第39次の豆
記者となり、北海道、函館の地を訪れ、杉本先生との再会となりました。
入院中の奥様も車椅子で会いに来てくれたということです。その翌年、杉
本先生はお亡くなりになりました。
 
 今回、記憶の隅にしまわれた30年前の夏の思い出を引き出す作業をし
た中で、やまかさの(多くの)人との出会いと別れの重なりの中で成り立
っている今の自分に改めて気づかされました。
 
 あれから1度も会わずじまいの豆記者の仲間の近況がひょんな所から入
ってきたりします。面白いものですね。みんな大人になったんだよね。
 
==================================
「鳳作忌」     ビートルズ世代のサラリーマン(平良下里出身)
 
 9月17日は鳳作忌でした。
 
 篠原鳳作は鹿児島市に生まれ、無季俳句の旗手として優れた才能を発揮
した俳人で、東京大学法学部政治学科を卒業後、昭和6年に旧制宮古中学
校(現県立宮古高校)に赴任し、昭和9年までの3年半、公民、英語を教
えていました。
 
 私が鳳作の事を知ったのは、中学生の頃だったと思う。国語の授業で先
生が黒板に
 
      “しんしんと肺碧きまで海のたび”
 
 と大書し、「これは、昔宮古で教鞭を執っていた先生の有名な俳句です」
と紹介してくれた。まだ、俳句など理解できない ぱんだる(はな垂れ)
中学生の私でしたが、この句には、なんだか海の匂いを胸一杯吸い込んだ
ような爽快感を覚えたのを今でも思い出す。
 
 その有名な句は石碑に刻まれ、平良の南西にあるカママ嶺公園に建って
いる。ここからは、海に向かって広がる ぴさら(平良)の町並みが手に
取るように見える。そして、きらきら輝く青い海の向こうには下地島、伊
良部島が浮かびまさに「しんしんと肺碧きまで」の風景が見渡せる。この
句は、那覇から故郷の鹿児島に帰省する際、客船から眺めた海を詠んだも
のらしいが、カママ嶺からのロケーションはこの句に相応しい。
 
 その後、鳳作の他の句にも触れるようになったのはつい2〜3年前の事
である。鳳作は、宮古で教鞭を執っていた3年半といいう短い時間の中で、
南国宮古を題材にした俳句を沢山詠んでいる。鳳作のみずみずしい感性で
紡ぎ出された句を幾つか紹介してみよう。
 
 ちなみに、「鳳作」という俳号は、昭和9年、母校鹿児島県立第二中学
校に転任してからのもので、旧制宮古中学校に赴任していた昭和6年より
同9年10月迄の俳号は「雲彦」である。その雲彦時代に詠まれた句であ
る。
 
      1.蛇皮線に夜やり日やりのはだか哉
      2.くり舟の上の逢瀬は月のまへ
      3.颱風や守宮(ヤモリ)は常の壁を守り
      4.くり舟を軒端に吊りて島の冬
      5.踊衆に今宵もきびの花月夜
      6.月光の重たからずや長き髪
 
 いずれも、鳳作の目に映った“蛇皮線”、“くり舟”、“颱風”、
“守宮”、“きび”等、南国風物が鮮やかに詠われている。
 
 特に6番目の句などは、月明かりのもと琉球乙女のつややかな黒髪が照
り映える様を「月光のおもたからずや」といういいまわしで表現してしま
う鳳作の巧みさに感心する。それと、重たからずの「からず」が方言の
「からず(髪)」と重なり2重韻を踏んでいるように響く楽しさがあって
気に入っている。(勿論、これは鳳作の意図しないもので、私の勝手な宮
古方言的 がんまり(悪戯)解釈なので誤解の無いように。)
 
 鳳作は故郷鹿児島に帰った僅か2年後、昭和11年9月17日、心臓麻
痺でその生涯を閉じている。30歳という若さである。鳳作の奔放な無季
俳句が本領を発揮するのはこれからという矢先の死はあまりにも早すぎる
し、あまりにも残念である。
 
 何故、東大卒の鳳作が、宮古島までやって来たのだろうか。当時は極端
な就職難で、東大出の学士さんでも就職にあぶれた時代だったようで、鳳
作も東大卒業後就職先が無く、しばらくは職に就かずぶらぶらしていた。
 
 『鳳作の季節』前田霧人/著(沖積舎)に、生い立ちから亡くなるまで
のことが詳しく出ていて、宮古中学校で教鞭を執るいきさつも書かれてい
るので、以下抜粋を紹介する。
 
 「俳句で新しい出発を果たした雲彦に、更に大いなる出発が近づいてい
た。この頃ようやく彼の就職先が決まったのである。それは、鹿児島から
南に一千キロの海を隔てた沖縄県宮古島にある県立宮古中学校の教職であ
った。当時、同校は創立四年目、雲彦は優秀な教師の人材を集めていた山
城盛貞校長事務取扱から熱烈な説得を受ける。
 当時、沖縄の那覇では兄の国彬が歯科医を開業していた。昭和五年三月
の「泉」投句作品に「首里城」など三句があるから、雲彦も那覇までは何
度か訪れていたことだろう。宮古島はその那覇からも更に海上三百キロを
隔てた遥かな所である。そして、大学を卒業して帰郷してから丸二年、鹿
児島で俳句修行も順調に進み、家には最愛の母と療病中の父があった。し
かし、健康を回復した今、雲彦は何時までもぶらぶらしている訳には行か
なかった。彼は宮古島行きを決心する。」
  
 お兄さんの国彬は、その後、宮古の港の近くで歯科医を開業したようで
す。

 鳳作の石碑がカママ嶺に建った当時、父と那覇から遊びに来ていた叔母
と3人で見に行った事がある。
父と叔母が石碑の前で「いい しんしーどぅやーたーどー(良い先生だっ
たよ)」と話していたのを記憶している。
 
 私の父は大正6年生まれなので、さんみん(計算)すると、丁度、鳳作
が赴任した時、宮古中学校に入学している事になる。つまり、教え子に当
たる。父から鳳作についていろんな話を聞いておけば良かったなと悔やま
れてならない。父が亡くなった今となっては、叶わぬ夢である。
 
 鳳作は公民、英語の他にも美術も教えていたようで、生徒からも慕われ
ていたようである。
 
 ネットで調べてみると、宮古では平成16年に「俳人篠原鳳作の世界展」
(主催・平良市立図書館、主管・鳳作の会)が開催され、、会場には「旧
制宮古中学校時代の鳳作」「父・篠原鳳作について」「カママ嶺公園に鳳
作碑の建つまで」などのコーナーが設けられ、大勢の市民が訪れたようす
が宮古毎日新聞(ネット版)で紹介されている。できれば、これらの資料
を常設展示してもらいたいものである。
 
 南国沖縄も鳳作忌を過ぎる頃から、少しずつ秋らしくなってくる。そし
て、寒露の頃になると天高くサシバが舞う季節がやって来る。鳳作も秋空
に舞うそんなサシバの群に感動したのだろう。次のようなサシバの句を残
している。
 
   “天津日に舞いよどみいる鷹の群”
 
 短い人生を光のように駆け抜けた夭折の詩人、篠原鳳作。実は彼の石碑
はもう一基有る。それは、鹿児島県指宿市山川町長崎鼻に建っている。か
って、客船のデッキから眺めた大海原を、今は対峙するそれぞれの石碑か
らどんな想いで見つめているのだろうか。
 
 
 ※篠原鳳作(しのはら・ほうさく)
  明治39年(1906)生まれ。本名国堅。鹿児島県鹿児島市出身。
  昭和4年(1029)に東京大学法学部卒業。昭和6年(1931)
  県立宮古中学校(現在の宮古高校)に教諭として赴任。
  昭和9年(1934)鹿児島第二中学校に転任。
  昭和11年(1936)に死去。享年30歳。
  宮古に教師として赴任中、無季俳句への理論研究と実作に情熱を傾
  けた。カママ嶺に公園に建つ句碑の「しんしんと肺碧きまで海の旅」
  は、代表作の一句。客船で鹿児島県へ向かう途中に見た紺碧色の海
  を詠んだものという。鳳作は優れた数々の俳句を発表。
  今では「新興俳句の旗手」「夭折の詩人」として全国的に有名。
  ※「2004年11月25日付け宮古毎日新聞記事より転載」
 
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「編集後記」             松谷初美(下地高千穂出身)
 
 9月の台風というと、5年前の9月11日の「マエミー」を思い出しま
すね。今年は、5年前と曜日の並びがちょうど ゆぬぐー(同じ)なのだ
そうです。(Motocaさんに教えてもらいました)。まーんてぃ、9月11
日は、木曜日どやたず(だった)。あして、5年前のきょう18日もくま
・かま発行日(vol.60)でした。あの時は、掲示板で激励の書き込みなど
がたくさんあり、みなさんの声をメルマガでも掲載しました。
 
 今回の台風は、5年前のような大きさではないですが、まだまだ油断で
きないですね。本土のほうに向かっているようなので、気をつけましょう。

 さて、vol.180、のーしがやたがらやー?
 
 Motocaさんの5年前にお父さんから聞いた『き゜むかぎ』の話し、いい
ですね。お父さんを想うMotocaさんの気持ちも伝わってきました。忘れら
れない心に残っている言葉ってありますよね。印象深かった『き゜むかぎ』
について、Motocaさんは、ご自身のブログ「あっがいたんでぃ!」で文法
解説をするそうです。ぜひ、こちらのほうもごらんくださいね。

 「あっがいたんでぃ!」
 http://motoca.ti-da.net/
 
 まさか、「ICU3!」を掲載することがあるとは、うむいやつんみー
ったん(思ってもみなかった!)。神童の原稿「ICU3!」は、「おし
らせ」の件名で「ただいま入院中・・・」と始まるメールに添付されてき
た。ICUの文字を見て、びっくり!ぷとぅぷとぅ(ドキドキ)。電話の
声は元気そうで、今はこんなふうに笑い話として掲載できるからいいけど
(ホントに人を笑わせる、うむっし文章だから困ったもんだ?よね)、命
あっての物種。家族はもちろん、神童ファンのためにも、これで「ICU」
は終了!
 
 Rさんから「豆記者」の話を聞いたときに、中学生のころ、「豆記者」
にあこがれていた私は、ぜひ、書いてほしいとお願いをしました。「豆記
者」が始まった理由や工程など、初めて知ることが多く、へぇーと思った
り、中学生のRさんの目にいろいろなことが新鮮に映っているのが伝わっ
てきました。「豆記者」のことを始めて知る人にとっても興味深い話だっ
たのではないでしょうか。杉本先生との出会いも印象深いものでしたね。
 
 恥ずかしながら篠原鳳作のこと なんず(あまり)知らなかったのです
が、昨日17日が、亡くなった日「鳳作忌」だったんですね。ビートルズ
世代のサラリーマンさんのお父さんは、教え子だったとは。B.サラさんが
鳳作に惹かれる理由が、句の紹介とともに伝わってきました。「鳳作忌」
を読んで篠原鳳作に関心を持たれた方も多いのではないでしょうか?常設
展、ぜひやってほしいです。
 
 あなたの感想もぜひ、お寄せくださいね〜。
投稿もいつでも受付中です。まちうんどー(お待ちしています)
 
 感想、投稿・ご質問は、↓くまがみ(こちらまで)!
  kumakama@mbp.nifty.com 
 
 次号は、10月2日(木)の予定です。どうぞお楽しみに〜。
季節の変わり目です。お体ご自愛くださいね。
次号でお会いしましょう〜。あつかー、またいら!
 
――◆――――――――――――――――――――――――――――――◆――
   編集・発行  : 松谷初美
   メール    : kumakama@mbp.nifty.com
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   バックナンバー: http://www.melma.com/backnumber_33637/
   配   信  : melma! <http://www.melma.com/>
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