辛口の本格書評批評紙「図書新聞」公式メールマガジン |
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◆◇◆ 今週の紙面から ◆◇◆
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連載45 境界の映画/映画の境界
小野沢稔彦
プロデューサー
世界に対し常に複眼的に向き合うこと——イジー・メンツェル監督『英国王給仕
人に乾杯!』、アレクサンドル・ソクーロフ監督『チェチェンへ アレクサンド
ラの旅』
不幸と幸運とはいつもドンデン返し、このことを世界認識の視点とし、何も見る
な、何も聞くな、そして、全てを見、聞け、を世界を生きぬく実践の方法とする
こと。世界に対し常に複眼的に向き合うことは、周縁を生きることを強いられ、
抑圧的な関係世界の中で従属的な位置を強制されるチェコの民衆が、そのあり様
を自覚化する過程で必然的に身につけた生の方法なのだろう。制度の中心から自
己を意識的にズラし、専有された空間の中で自らを遊戯的な存在として位置づけ
る、知的で両義的な戦略は、その現われとして軽妙で屈折した喜劇として表出さ
れる。
久しぶりにフランス映画社が放つチェコ映画『英国王給仕人に乾杯!』(イジー
・メンツェル監督)は、苦いユーモアに支えられた深い抵抗の意志を全篇に漲ら
せた傑作である。自らを世界に同一化するのではなく、非同一的な遊戯空間を作
り出し、その中でミメーシス的な仕掛けを意図的に行いつつ、生のあり様を模索
する知的で積極的な喜劇として『英国王……』は抑圧的世界に——外部世界だけ
でなく、内部世界の問題も含め——したたかに対立する映画としてあるだろう。
この時、ミメーシス的方法とは単に〈私〉と〈他者〉とを二分割し、私が他者を
模倣するのではなく、主体が客体に身をやつしつつ、両者の渾沌の中に、その狭
間であいまいに浮遊しつつ世界を見、聞き、知ることで、固定的な関係性を流動
化することなのだ。このことは東欧の小国チェコが選びとった高度な文化戦略で
あり、例えば文学の伝統にも通底しているだろう。
この生き方を体現した一人の男が、いかに20世紀を生き延びたのか。その波乱
に富んだ、それでいてなんとも矮小な小さな男の可笑しくて悲しい物語こそが
『英国王……』なのである。小さな男は20世紀の両大戦、特にナチ支配下の第
二次大戦での愚かしく、絶望的で痛ましい歴史と戦後の共産主義政権の中を、断
固ミメーシス的に生きる。彼はいつでも、どこでもあらゆる意味で中心から追放
されてあり、周縁的に境界上をタイトロープしながら、しかし、擬態と化しつつ、
体制内部で体制そのものを空洞化する。小さな男にとって、大きな物語は彼の意
志とは無縁なままに外から勝手にやって来る。つまり、世界は小さな一つ一つの
〈出来事〉の連鎖として、彼の前に現出する。男は、大きな物語、男にとっての
出来事を軽妙にズラし、ミメーシス的に向き合い続ける。そして、映画は男が関
わる出来事を肌理細かく描き出す。男にとって出来事は時に不幸をもたらし、幸
運にドンデン返しする。この狭間に生ずる軽妙で苦いユーモアは、重層したあま
りに屈折した物語としてあり、小さな国の小さな男は笑いによって絶望と紙一重
のところで踏み止まり、別な何か、体制化された見ること、聞くことではない身
体性の発見、すなわち別な見る、聞くことの獲得へと自己のあり様の転化を図る
だろう。制度化された身体性をズラし、抑圧的な関係性の全てをシャレのめす、
そのような生の方法の発現として、笑いはあるのだ。小さな男の小さな物語は歴
史に翻弄されながらも生きる人間のしたたかさの物語だ。
小さな物語はまた、あらゆる細部に実に良く目が行き届いている——細部こそが、
小さな物語を傑作に仕立てる。例えば、言葉の持つ両義性、その抵抗の力と被拘
束性を意図的に使っての言語対決、衣裳の制度性を異化する描写、ビールジョッ
キや鏡などの小道具を活かした確かな演出。そして、ソーセージやビールにまつ
わるぬきさしならぬ記憶の鮮やかさ。そうした細部表現が、小さな男の物語を豊
かな物語として成立させ、紛れもなく映画でしかない表現として、この映画は私
たちの前にある。イジー・メンツェルの細部へのこだわりが、あらゆる場面に貫
徹される『英国王……』は、抑圧性を異化し、知的で諧謔にみちた映画表現の可
能性を拓いた見事な映画なのである。
一方、21世紀の行方を暗示するチェチェン戦争の現地にロケし、ロシア人監督
・A・ソクーロフが戦争の現実を描いた『チェチェンへ アレクサンドラの旅』
も、夢幻と現実とのあわいで揺れる限りなく痛ましい戦争映画として特筆に価す
る。ここには、映画全体を貫いて異様なまでの戦争の酷烈さと、ただならぬ気配
が漲っていて、その気配の中に直面させられる私たちは、激しい緊張を強いられ
る。しかし、断っておくが、この映画には再現としても、現実としても、戦闘シ
ーンは全く現われることはない。戦闘のない戦争映画『チェチェンへ』は、しか
し、ぬきさしならぬ戦争の気配を描くことで見事な戦争映画となったのである—
—そしてこれまでの、戦争を生み出してきた戦争映画への批判としてもあるだろ
う。ソクーロフは、チェチェン戦争の前線に自分と同じ(その女性形)名前を持
つアレクサンドラという老オペラ歌手(兵士の祖母という設定だが、オペラ歌手
としか言いようのない存在)を投げ込み、孫の元へと戦地訪問させる。そして、
そこに生ずる気配やチェチェン人とのあいまいで不可思議な遭遇を、アレクサン
ドラの無表情の表情や身振り、意味にならない呟きに乗せて、現実と夢との狭間
の〈出来事〉のように描き出す。戦地の異様な緊張感が常態化した、その非日常
の日常化の中で、現実の前線兵士がカメラに向ける視線や、兵舎の狭い通路での
スレ違いや、執拗にカメラにつきまとうチェチェンの子供たちの眼差しが、つま
り〈戦争〉の現実の断片が全篇にわたってアレクサンドラにまとわりつく。そし
て、観る者は戦場に捕り込まれる。
アレクサンドラの歩み——何かに強いられたように戦地を歩くその歩みと、アシ
ストする若い兵士の歩幅と速さと彼女のそれとの差異。アレクサンドラの戦争と
孫への屈折した想い——祖母の重い言葉と孫の即物的な対応との差異。そこに生
ずる言いようのない空虚。しかし、アレクサンドラという存在自体は、戦場の全
てと自己との差異・断絶をまったく忖度しないかに見える。観る者をイライラさ
せ混乱させる、戦争とアレクサンドラとの断絶。奇妙な平静さを保つ戦闘のない
戦争状況——もちろん、それは圧倒的なロシアの軍事力によるチェチェン殲滅戦
によって作られた——その見せ掛けの安定の内実が、アレクサンドラの緩慢で不
遜で傲慢に見える歩みによって、気配として浮上する。
彼女の不遜さはチェチェン人にも向けられる。アレクサンドラとチェチェンの女
——彼女も戦争へと息子を送ったと思われる——の間に生ずる奇妙な親密さ。そ
してまた、バザールを睥睨するように歩む彼女は、かつてのオペラファンに対す
るようだ。憎悪の眼差しが行き交う中で、彼女はその存在様式の特異性故に、チ
ェチェン人にとっても、ある〈母性〉として存在するだろう。この〈大地母神〉
は、分断された大地を超えて屹立する。けれど、それは一瞬の夢幻劇だ。見せ掛
けの関係性は、アレクサンドラがロシア兵士の祖母であるという現実に回収され
る。
その帰路——チェチェンの若者とアレクサンドラとの長い道行は美しい。若者は
言う——メッカとペテルブルグに行ってみたい、と。メッカは「イスラム」の、
ペテルブルグは「全ての美と富と力」の象徴。チェチェン戦争は、このメッカと
ペテルブルグが象徴するアンビバレンツな憧憬の上にある戦争なのだろうが、
「ロシア精神」の権化としての女と、そこに両義的な感情を抱くチェチェンの若
者との道行はあやしく美しさを漂わせ、実に痛ましい。戦争という空虚。
そして、部隊に戻ったアレクサンドラは、初めて孫と心をゆるしあった幸福な時
間を持つだろう。しかし、現実は、この美しい時間を残酷に引き裂く。アレクサ
ンドラにとって、孫との別離が戦争の現実の中でやってくる——孫は命令によっ
て最前線へと赴かねばならない。孫は、祖母を抱いたその手に銃をとって、現実
の戦闘へと向うのである。一方、アレクサンドラは全ての制度と文化とが権力と
なって抑圧的に作用するロシアという国に帰っていくだろう。この時、チェチェ
ンの女はアレクサンドラを見送ることはない。しかし、アレクサンドラは戦場で
何を見、どこへ帰るのだろうか。
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◆◇◆ 今週の1面 ◆◇◆
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今週の1面: 土屋公献著『弁護士魂』を読む
日本国家の戦争責任・重慶大爆撃を糺す
「 元日弁連会長・土屋公献という名前に強烈な印象を抱いたのは、確か四年ほ
ど前のことだったと記憶する。付き合いのある市民運動の学習会で、大要、以下
のような内容の講演をされていたのに感銘させられた。「娘も立派な中年のオバ
サンになったので、もうお話ししてもいいだろう。彼女がまだ子どもだった頃、
もしも誰かに命を奪われるようなことがあったら、私は私の責任において、犯人
を必ずこの手で叩き殺してやると誓っていた。
一方で、しかし、私は死刑制度には断じて反対する。それとこれとは違うのだ。
国家に人間の命を差配する権限など与えてはいけない」
なんて腹の据わった人だと震えた。公と私の領域をこうまで厳格に分けて考える
人を、それまで見たことがなかった…だけでなく、実は私自身がかなり近い考え
方をしていたので、腹の底から共感してしまったのである。
その土屋先生が自らの半生と信念を綴った本を出した。タイトルも、いきなり扉
の裏に掲げられた短歌も最高だ。
余生をばどう生きようと勝手なり
ならば平和へ生命捧げん」……詳しくは本紙をご覧ください。
……詳しくは本紙をご覧ください。 http://toshoshimbun.jp/
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◆◇◆ 今週の目次 ◆◇◆
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主な書評3〜6面
谷徹ほか『暴力と人間存在』(堅田研一)
遠藤乾編『原典 ヨーロッパ統合史』他(米田綱路)
古川日出男『聖家族』(川口晴美)
崔常植『韓国の民話伝説』(深沢夏衣)
川崎隆司『原典によるロシア文学への招待』(安井亮平)
天沼香『故国を忘れず新天地を拓く』(森本豊富)
櫻井秀子『イスラーム金融』(水島多喜男)
坂内久・大江徹男編『燃料か食料か』(天笠啓祐)
E・レヴィナス『困難な自由』(皆川勤)
S・クトゥブ『イスラーム原理主義の「道しるべ」』(室沢毅)
ポケットブック2面
第21回東京国際映画祭レポート(大和晶)8面
連載(蜂飼耳、伊達政保、神山睦美、稲賀繁美、小嵐九八郎、秋竜山、前田和男、
小野沢稔彦)
…連載は、ホームページでもお読みいただけます。http://toshoshimbun.jp/
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◆◇◆ 書籍の紹介 ◆◇◆
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※『旧約聖書で読むシャガール』好評発売中!
「聖書の絵画テーマが表現の可能性を汲み尽し、表現する力を失ってしまったと
する声がすでに高まった時代に、シャガールの作品がわたしたちに贈られている。
ここにひとりのユダヤ人芸術家が彼の民族にない宗教絵画に道をつけ、このよう
に広く宗教的、旧約聖書的絵画テーマに取り組んでいることは、当然のことのよ
うに思われるかもしれないが、実際には驚くべき出来事である(本書より)。
この美の巨人の存在こそ、もっとも今日的であり、もっとも刺激的な芸術を提示
し続けてくれているのだ。」
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/
