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陸上自衛隊が初めて海外派遣されたカンボディアからイラク復興支援まで、海外に赴いた隊員数十人を直接取材し、彼らが現地で何を体験し、どうやって任務を遂行してきたのか、その実際を聞き書きしたものです。
派遣先での「異文化との出会い」に悩み、戸惑いながら、事態をどう解決してきたのか?知られざる自衛官の活躍を等身大で紹介します。




「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」vol.10

発行日: 2008/7/9

(UNTACとUNMO-1)
 1人ぼっちのカンボディア
                      UNMO(停戦監視要員)M3佐
                          (1992年9月〜93年3月)

■UNTAC(国際連合カンボディア暫定機構)とUNMO(停戦監視要員)の概要

 20年間にもわたる戦乱と国内の混乱が続いていたカンボディア。
 1992年6月に、わが国では国際平和協力法が制定された。カンボディアへの陸上自衛隊部隊派遣は、わが国初めてのPKO活動だった。大きな話題になったのは、施設(工兵)大隊の派遣である。

 初めて海外に陸上自衛隊の部隊旗がひるがえった。UNTAC要員に死傷者も出るような危険な状況があった。国内では、さまざまな議論がされ、論戦があり、論評もされた。その中で、自衛官は耐えていた。黙々と、現地の復興に力を尽くした。
 空自は輸送機をフル稼働させ、海自は輸送艦などで物資を運んだ。

 UNMOは、その活動がほとんど知られていない。M3佐は、当時盛んだった現地報道でも、ほとんどふれられることがなかった停戦監視要員である。


▼多国籍軍の5人で自炊しながらの停戦監視

 ポルポト派のダル将軍は、コンポントムで突然、停戦監視要員を捕虜にした。
 ちょうど、M3佐が、4人で編成される特別チームに入って、そこへ行く予定で、プノンペンで準備中の時である。

 「ロシア人の人事担当が来ました。お前だけ、コンポントム行きのメンバーから外れた。では、バッタンバンへ帰れるのかと思ったら、チームのリーダーから拒否されたそうです。国境地帯のCV6(国連内の名称:Cはカンボディア、Vはベトナムを表して、その6番のポイント)へ派遣ということになりました」

 わが陸上自衛隊から派遣されたのは、M3佐をふくむ8名だった。

 停戦監視要員とは、国連から派遣された加盟各国の陸軍将校である。
 階級は、中佐あるいは、少佐、もしくは大尉であること。最小限6年間は軍人としての勤務経験をもっていること。地図を判読できること。地上用武器の識別、任務地域を飛行する航空機の識別能力があること。英語での読み、書き、会話能力があること。そして、国際免許を持ち車輌を運転できることなどが条件だった。
 身体条件も厳しかった。過酷な勤務実態であるから、満年齢が45歳未満で、最上級の体力がなくてはならない。

 その任務は、多国籍の混成チームをつくって、各地に事務所(のような拠点)を開く。外国からの軍事顧問、部隊、各種武器の流入を監視する。外国からの軍事援助の停止の監視および対立する勢力どうしの停戦違反の監視をすることだ。武装はない。まったくの丸腰で、両方の勢力のまっただ中に割って入る存在である。インド歩兵が治安を守る地域だったから、日常の生活は彼らが護衛をしてくれた。

 CV6は、プノンペンの東、まさにベトナム勢力がいつも浸透してきている地域にあった。事務所は、わが国でいえば、かやぶきのあばら屋のようなものだった。トイレは当然、野外の掘っ立て小屋で、隣との仕切りもない。

 チームはロシア人中佐がリーダーだった。フランス人大尉、セネガル人老少佐、チュニジア人大尉、それにM3佐が加わった5人の各国陸軍将校たちと、通信兵のオーストラリア人で暮らした。困ったのが食事である。自炊するしかないので、みなで話し合って現地のおばさんを雇った。

 その作るご飯は当然、現地の食事である。チームにはイスラム教徒がいることから、鶏肉と魚しか食べられない。しかも、米が主食だが、西洋人にとっては、米はたまに食べる野菜のようなものである。誰もが、文句ばかり言っていたらしい。M3佐だけは、けっこう口にあったという。


▼「ぼくは2番手ですから」

 M少年は家出をした。実家は神奈川県西湘の城下町である。そこの進学校を卒業して浪人時代、両親と大げんかをしてしまった。家を飛び出し、電車に乗って東京を目指した。わずか1時間そこそこで新橋に着いた。

 「寿司屋に住み込みの店員として入ることができました。いや、別に職人になろうと思ったわけではないです。給料も良かった。当時で月に10万円になりました。貯金をして、大学へ入るための資金にしようと思っていたのです。お客からチップも出るし、でも受験勉強はほとんどできなかったですね」

 転機は高校の同級生から聞いた話だった。防衛大学校という大学があって、そこへ行けば給料も出るという。入学金も要らない。全寮制だから住むところもある。まさに、渡りに船だった。幸い、合格した。

 もともと勉強が嫌いであったわけではなかった。卒業の時には、日本機械学会から表彰を受けた。幹部候補生学校では、武器科を第1希望、続いて戦車(機甲)、高射特科(高射砲兵)、野戦特科、航空科と書いて出した。戦車が好きだったし、研究がもっとしたかった。

 「普通科(歩兵)だけは、絶対、いやでした」

 ところが、自衛隊ではこう言い習わしている。個人の希望が優先するか、組織の要請が重視されるか。

 発表は普通科だった。後者が優先されたらしい。候補生として隊付きしたのは、当時、東京都新宿区市谷にあった第32普通科連隊である。大学院を受験して、研究者になりたいと思っていたが、手違いから内地派遣のチャンスを失った。2尉になってから、やっと防大の研究科(修士課程)に進むことができた。戦車の足回り、サスペンションや履帯(キャタピラー)、転輪などの研究をした。

 卒業後は、技術研究所に勤務。90式戦車のサスペンションの技術試験に携わり、技術系幹部の登竜門であるTAC(技術高級課程)に進んだ。ここで45週の教育を受けると、人事上は、旧軍の陸軍大学校になぞらえられるCGS(指揮幕僚課程)出身者と変わらない。3佐になったばかりの頃は、現在、装備化されている高機動車の主務者の1人だった。

 「この頃、実は、自衛隊を辞めたくなっていたのです。もっと、好きな研究ばかりをやりたくて仕方なかった頃でした。企業なども、人材を求めていた時代でしたから」

 富士の装備開発実験隊にいたときのことだ。上司から呼ばれた。PKOに行けという話だった。小学生の子どもはいるし、一体、どうして自分がと思った。

 どうして、派遣要員に選ばれたのでしょうか。そのあたりを、どうお考えですかと聞いてみた。

 すると、「ボクは2番手だから」という答えが返ってきた。難しい、危険な任務に、トップは出せない。もし、事故にあったら国の損失になる。だからといって、国際社会の国同士の戦いの場に、あんまり下の序列の者は出せない。なんだ、あれが日本軍か……と恥をかくことがあるかも知れない。だから、トップでは絶対ない、でも、それほど下ではないというところで、ボクが選ばれたんじゃないでしょうかと笑って答えてくれた。


▼日本の良さを実感した

 多国籍からなる組織での勤務は、M3佐を大きく成長させた。
 まず、協調性が大変重要だった。宗教や習慣、政治姿勢について、互いに不干渉になることが一番だそうだ。イスラム教、ヒンズー教、キリスト教、ユダヤ教、それに仏教。その中でもカンボディアの人々が信仰するのは小乗仏教だった。

 戒律を守ったり、礼拝をしたり、さまざまなしきたりは各宗教、各民族それぞれである。振る舞いや、言動にも、それぞれの文化が現れた。価値づけて、批判的になったりしてはならない。ストレスがたまり、結果的に共同で仕事などはできなくなってしまう。各国軍人の相互理解は、安全保障の財産である。M3佐はそれを痛感してきた。
 しかし、一度した約束や時間を厳守すること、これは友好を築く上で何より勝る方法だったそうだ。

 親善のために、出会ったときお互いに珍しい物を出し合うということをした。国境監視の会議の場でベトナム側と接触したときだった。M3佐は、カーバイドに水を注ぐことで、酒にお燗ができる缶詰を提供した。これは相手にとっては、なんとも珍しいということで、大受けになった。

 すると、ベトナム軍の少佐は、びんの中にぎっしりと木の葉や、とかげが詰まった酒を出してきた。聞いてみると、この1ビンが500ドルもするらしい。少佐の給料はたしか20ドルくらいのはずだった。2年間の給料にもあたる貴重なものを出してきたのだ。負けまいとする少佐の軍人らしい意地と愛国心に、M3佐は胸をうたれた。

 ベトナム側からの国境の侵食状況をつかみ、それを司令部に報告する仕事があった。しかし、地図は1970年代の米軍のものしかなかった。

 「政府は、私に当時の最新型の国産のGPSを持たせてくれました。他に、短波ラジオ、VTRなどを支給してくれました。そんな国は、わが国だけでした。都合、6カ国の軍人と仕事をしましたが、誰もが、日本のハイテク技術を羨ましがり、尊敬をしてくれました」

 あるインド軍将校がM3佐に言った。迷彩服は、オランダ製が最高だと思っていた。それが貴官着用の実物を見て、日本製が一番だと思った。ぜひ、一着分けて欲しい。M3佐は誇らしかったが、丁重に、事情を説明して断ったことは言うまでもない。


▼わが国の良さの中で最大なことは安心して勤務できること

 インドの軍人は、宗教対立の中にいる故国の家族のことを心配ばかりしていた。ロシア軍将校は、帰国すべき国があるかどうか、祖国が経済破綻をしてしまうのではないかという心配の中で勤務を続けていた。その点、ボクたちには政情が安定した祖国がありました。家族以外の人からの手紙や荷物が届いたのも、M3佐だけだったそうだ。

 しかし、筆者が気になったことがある。それは、フランス人将校の派遣手当の話である。「カンボディアは天国、ユーゴは地獄」という話をM3佐は聞いた。フランス軍は、手当の規準が本国からの隔離度で決まっている。フランス軍中佐の場合は、本国での給料がドル換算で月額5000ドル、派遣手当は1万3000ドル、それに国連からの手当(MSA)が各国一律で3900ドル、合計2万1900ドルにもなる。つまり、ふだんの月収の3.4倍が支給される。

 これに対して、わが自衛隊は2佐(中佐)の場合、通常の月額5000ドルは変わらない。派遣手当は5000ドルである。国連手当は3900ドルだから、支給額は約1.8倍でしかないことになる。

 わが国が自衛官に支給する手当の額が、国際的に高いか低いかの判断は難しい。国の経済状況はそれぞれ違うし、任務に対する国民の理解度もそれぞれ異なることだろうから。
 しかし、筆者は思う。自衛官への支給額は、国力に比べてあまりにも低い。職業に貴賤はない。その通りだろう。自衛官も職業人である。いやだったら辞めればいい。仕事をしているのは、誰だって同じだ。そう主張する人もいるだろう。
 だからといって、ほとんど丸腰で、生命の危険を感じながら、国の名誉をかけて異国の地で頑張っている人たちへの報酬がこの程度でいいとはとても思えない。

 M3佐は、今は1佐になっている。教官という立場になって、若い人たちを教えている。学生たちに、いつも、言っていることがある。

 部隊に行けば、自分より年長で、経験も豊富な人たちを部下にする。そのとき、何をもって自信を持つかということだ。最新の軍事知識を身につけていくこともその一助になるだろう。

 「ボクはずっと、無我夢中でやってきましたから」と、M1佐は遠いところを見やるような目をした。

 
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自衛官に感謝。楽しみにしています。日時:2008年7月9日


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