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【PUBLICITY】1757:読者の物語〜相対主義の行き着いたところ
発行日: 2008/7/5
■■メールマガジン「PUBLICITY」No.1757 2008/07/05土■■
▼警官って、こんなに多いんですね。東京中で検問中です。
▼最近読んだ本。平山洋『福澤諭吉』ミネルヴァ書房。
4年前に『福沢諭吉の真実』が出たとき既に詳しく本誌で紹介
しているが、彼の福澤論は実に面白い。「本書において私が提
示した福澤像は、〈文明政治の六条件を日本に広めようとした
伝道者〉というものである」(p386)という見通しを立て
たことが、本書の最大の価値ではないか。
そういわれてみればたしかに『西洋事情』で示された文明国た
る六条件「自主任意」「信教保護」「技術文学」「人材教育」
「保任安穏」「貧民救済」の達成という目的の中に、福澤の活
動はすっぽりと含まれる。
従来の福澤像とは違う評伝になっており、彼自身の福澤研究の
集大成だ。今後、「伝道者」という位置づけから、さらに突っ
込んだ解釈につながるのか、どうなのか、非常に興味深い。
▼「個人的な物語」というのはどうも表題としては冴えないの
で、「読者の物語」にします。
秋葉原での無差別殺傷事件について。
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Date: Fri, 13 Jun 2008 06:57:12
Subject: 相対主義の行き着いたところ
竹山さま
今回の事件にしても、それを扱うマスコミ・有識者、あるいは
視聴者にしても、どこにも思想がないと思いませんか。表面的
な対応ばかりで、本質を一切語らない。
これは戦後という時代が、ニヒリズム(相対主義の行き着く先
)であったからだと思います。
渡辺京二の本の中に、気になる文章があったので、ご参考まで
にお届けします。
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▼メール感謝です。ということで「戦後思想の行方」(渡辺京
二 評論集成III 「荒野に立つ虹」より/初出「戦後相対主義
の泥沼」、1985年9月1日、熊本日日新聞)を送っていただいた。
そのなかには、次のような一文があった。
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戦後思想とはなにかということをせんじつめれば、個人の存在
は国家的ないし共同体的な大義より優先するという原則と、政
治・経済システムに対する一般大衆の参加あるいは監視の権利
という二点に集約されざるをえない。
そしてこの戦後思想の精髄についていえば、それはふたつなが
ら大正末期から進歩的な知識分子の頭脳を支配する公準だった
のである。むろん、戦前から戦後への過程において、ある種の
徹底化はなされた。だが巨視的に視るならば、戦後の原理が戦
前圧迫を蒙っていた原理の制覇した姿であることは、だれの目
にも明らかである。
そして、この五十年の過程を通じて実現したのはあらゆる価値
の相対化であった。
戦後思想の精髄が相対主義にほかならぬ事実は、司馬遼太郎と
田辺聖子という二人の人気作家によく現れている。
ヒューマンネーチャーというものはたかが知れた代物である、
おたがい聖人でも英雄でもない凡俗として、その凡俗の欲求を
聡明な目で冷徹に見通して行こうではないか。妥協と取引によ
る快適の獲得こそ、人間という有限の存在の望みうる最上のも
のではないか、というのがその人間観・社会観のエッセンスで
、要するにこれは大阪の商売人の哲学といってよい。
この司馬・田辺風のリアリズムは、いまや国民レベルの合意を
得ているといってよいだろう。
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▼そういわれてみれば、そういう気もする。ちょっと前から関
西弁がテレビの「バラエティ」と呼ばれる種類の番組を席捲し
ているが、なにか関係しているのかな。していないのかな。
東京から大阪に転勤した知人が数人いるが、例外なく、大阪の
方が住みやすい、居心地がいい、東京には帰りたくない、と言
ってますね。例外もあるだろうけどね。
たぶん、商売人の哲学が悪いんじゃなくて、商売人の哲学を人
間の哲学にしちゃったら、こりゃあ具合がよくないよ、という
ことだろうね。
▼個人と組織。難しいなあ。
むろん、相対化は必要なんですよ。なぜか。相対化は、何度も
書いてるが、相対化は、相対化できないものを抱きしめて人生
を走るためにあるからだ(べつに歩きでもいいです)。
しかし、人間の歴史には、まず、相対化できないものなど持ち
あわせていなかった時代があり(「意識」がなかったんだから
そりゃそうだわね)、いつからか知らないが、相対化できない
ものを持ちあわせるようになった(価値)。
たぶん、相対化のための最大の道具である「言葉」を使い始め
た時に、相対化できないものも生まれたのではないだろうか。
だったら再び、相対化できないものなど必要としない時代が来
たとしても、おかしくなくない?
これまでの因果を含めると、やっぱりそれはおかしいんだろう
ね。相対化の仕事をするのは、人間の理性である。しかし、
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理性が何を知っている?
理性が知っているのは、知識として知りえたことだけだ(ある
種のものは、ことによると、けっして知ることがないかもしれ
ぬ。これはたのしいことではないが、だからといって、それを
口にしてはならぬという法はあるまい?)、
だが人間の性(さが)というものは全一的に、人間のうちに意
識的、無意識的に存在するいっさいをあげて活動しているので
あり、嘘もつこうが、ともかく生きているのだ。
ドストエフスキー『地下室の手記』p44−5
江川卓訳、新潮文庫
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▼「意識」の上でだけ仕事を進めて、あらゆる価値を相対化で
きる、と勘違いしたところがよくなかった。そもそも、相対化
できるものを価値とは呼ばない。
自ら使っている論理の破綻に気づかないほど「自意識」が肥大
化しているのだとすれば、その「意識」自体が病気なのだ。し
かし、もちろんその人は自意識が病気であることを認めようと
しない。っつーか気づかない。そして皆が皆、病気になると、
正気の人が病気にされてしまう。
厄介なのは、この病気は論理や理性を舞台としていながら、論
理や理性だけでは治せないというところだ。勝ち負けはつく。
しかし何も解決しない。ひどいときには勝った方の自意識が肥
大して終わり、という滑稽なことになる。で、負けた方も自意
識がさらに大きくなっちゃったりして。そういう例が、これま
でどれだけたくさん行われてきたか。挙げ句、誰も何も言わな
くなった。
▼秋葉原の犯人が書き込んだとされるコメントを読んで、これ
はドストエフスキーだ、というようなことを書いている人は少
なくない。それは至極当然のことで、ドストエフスキーを読ん
だことのある人なら、十中八九、ドストエフスキーを想起した
ことだろう。
『地下室の手記』以降のドストエフスキーの小説にでてくる、
目眩く「社会性」から、いまのニッポン人が学ぶことは多い。
ちゃちな相対主義など千キロ先まで吹っ飛ばし、ちんけな自意
識をぶち壊す物語が必要だ。だからこそ、亀山郁夫訳の『カラ
マーゾフの兄弟』がバカ売れしているのかも知れない。
もしそうだとしたら、ニヒリズムという言葉、相対主義という
言葉にまつわるすべてのものと、ニヒリズムや相対主義という
言葉を一切使わずに闘う以外に、有効な方法はないのかも知れ
ない。ドストエフスキーのように。
freespeech21@yahoo.co.jp
http://www.emaga.com/info/7777.html
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