順空和尚の一分で読めて一生忘れない悟りのお話 |
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■追善のための一文字法話!) −種−■
私の住する寺は農村にあります。
毎年この季節になると、田に水を張る用水の音が涼しげに響き、辻々で田植えに精を出す姿が見られます。
田水に映る空や雲、早苗を揺らす漣(さざなみ)の何と美しいことでしょう!
植えられた苗が豊かな稲穂へと実り、私たちのいのちを育んでくれますように‥
人は別れの時、近しい人の心の中に、一粒の種を植えていきます。
それは特別な種で、頂戴した人が“その存在”に気づくまで、いつまでもずっと胸の中で眠っています。
離れた人を惜しみ私たちが涙をこぼす時、その涙に触れて種は静かに芽吹きます。
時々その芽吹きの音を聴く人もいます。
涙は心の土壌を潤します。
心が渇ききってしまわぬよう、溢れる涙は無理に止めようとする必要はありません。
同じ悲しみを知る人の、和顔と愛語の陽光と、傾け合う耳の月明かりを浴び、種は背を伸ばし葉を茂らせます。
昼と夜の両方が、暖かさと静けさのどちらもが、種の成長には不可欠だから。
折々に、覚者の残した智慧の養分を摂り、聖者が開いた慈悲の泉を汲む中で、種はいつか蕾(つぼみ)を持ちます。
別れの痛みを乗りこえて心に花を咲かせることは、口で言う程たやすいことではないかもしれません。
けれども〈なき人の願い〉を想う時、その人が最後に植えた心の種を、育み咲かせたその花こそ、浄土にまします仏への最上の供花だと思うのです。
そして私たちもまた別れに際し、旅立つ人の心に種を落とします。
言葉や歌や表情の〈思い出〉というその種は、極楽への旅路の上で発芽をし、往生浄土の足どりを支えます。
極楽浄土が無数の花で覆われているのは、きっとそれらの種が花開き、咲きひろがっているからではないでしょうか…
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