【聖書】私の隣人?
発行日時: 2006/3/18 〓/†/【聖書を開けば・・・】〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 第276号 〓〓
おはようございます。本日もご愛読をありがとうございます。
一雨ごとに暖かさを増す今日この頃。
サクラの開花は、すぐそこまで来ているとか・・・
♪ は〜るよ 来い は〜やく 来い ♪
学校ではこの歌、いまでも歌っているんでしょうか?
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ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。
強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにして
逃げて行った。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、
反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り
過ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を
見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注
いで、包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱し
てやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰り
に払います。」
(新約聖書 ルカの福音書 10章 30−35節)
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ある時、ひとりの律法の専門家がイエス様に尋ねて言いました。《先生、何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか》
死なないいのち、つまり永遠のいのちを自分のものとするための道を探り極めることは、いつの時代においても私たちの最大関心事であり、究極のテーマであると言えるのではないでしょうか。
質問者の男は律法の専門家として常日頃から神のことばに親しみ、それを深く学ぶ境遇にある人でしたので、イエス様はまず、彼自身が永遠のいのちについて律法からどのように学んでいるかを知ろうと思い、次のように質問されました。『永遠のいのちを手に入れるために、神の律法は何をあなたに求めていますか。あなた自身は律法をどう読み、どう理解していますか』と。
男はもちろんその道の専門家として、プライドをかけ即座に次のように答えました。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。またあなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、と律法には書いてあります」と。
これに対してイエス様は《そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます》と、はっきり宣言されたのでした。
男は、イエス様が自分の答えに対して《そのとおりです》と言われたことにたいへん気を良くしました。というのも、それは彼がすでに常日頃から追求している生き方であり、それをもって自分なりの満足、一つの充実感を得ていたからです。
「何か目新しいことが聞けるかも知れないと、永遠のいのちに関する質問をしてはみたものの、結局は律法の専門家である私が知っている範囲を超えるものではなかった」 男は自分の考えの正しさ、自分の日々のあり様の妥当性を確認し、あらためて満足したのでした。
しかしこの時彼は、自分の正しさをさらに誇示しようとして、続けてこんな質問をイエス様にしました。「律法では、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよと求めていますが《では、私の隣人とは、誰のことですか?》」と。
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私の隣人? 男は、すでに自らの物差しをもって自分なりのめぼしをつけていました。が、その対象となる人々をイエス様の口からあらためて具体的に示してもらうことにより、要は、自分自身の正しさがさらに人前に確かなものとされることを期待したのです。
この男にとっての隣人、それはすなわち彼の家族であり、友人また仲間であり、彼の益となる関係者は皆一応その範ちゅうに属する人々であったと思われます。自分にとって味方である者、自分が好みとする人間に対して積極的に親切・愛をもって近づき接する。彼はそれで良いのだ、十分なのだと思っていました。いいえ、それ以外の人のことを頭に思い浮かべるなど、彼にはまったく及びもつかなかったのではないでしょうか。
隣人が「誰」のことを指して言っているのか、自分の正しさを証明するためにも、彼にはどうしてもその対象者を特定してもらう必要がありました。
しかしながら実際問題「隣人とは誰のことですか」と範囲を特定することにどれだけの意味と価値があるのでしょうか。
永遠のいのちを自分のものとするためには、と先に示された二つの戒めが私たちに求めている最も重要なことは「愛すること」だったはずです。が、この男の中ではいつしか論点が横道に逸れてしまい、「誰を愛するか」という対象を特定することが、より重要な関心事となっていたのです。
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そこでイエス様は、冒頭に紹介した「たとえ話」をこの男にされました。
あらためて登場人物の紹介をしますと、まずは強盗の被害にあった気の毒な男。次に、たまたまその場を通りかかった祭司、および時間をおいて同じくその道をやって来たレビ人。さらにもうひとり、旅の途中にこの道を通ったサマリヤ人。
イエス様は、祭司・レビ人・サマリヤ人の男それぞれが、強盗の被害者とどんな関わりをもち、現場でどんな対応を示したかについて語られました。そして話を終えた時、律法の専門家である男にこう問い掛けられたのです。《この三人の中で誰が、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか》と。
祭司は、強盗に襲われ倒れていた被害者を見ましたが、自分の身に降りかかる危険を思ったのか、わざと道の反対側を通って、素通りして行きました。
しばらくして今度は、レビ人が同じ場所を通りがかりました。が、しかし彼もまた祭司同様、被害者の姿を確認しつつも道の反対側を通り、彼との関わりを拒んだのです。いわゆる「みてみぬふり」を決め込んだのでした。
では、旅の途中でその場に出くわしたサマリヤ人の場合はどうだったでしょうか。彼の目にも悲惨な状況が飛び込んできました。しかし次の瞬間、彼の心には「あわれみの思い」が生じ、それは即行動となって表われたのです。サマリヤ人が、その後どのような対応をもって被害者の男に対峙したかはお話のとおりです。
ではもう一度イエス様の質問に戻りましょう。《この三人の中で誰が、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか》というものでした。
隣人についての質問をしたこの男はこの時、さも当然と言うように《その人にあわれみをかけてやった人です》と答えましたが、その時イエス様も言われたのです。《あなたも行って、同じようにしなさい》と。
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《あなたも行って、同じようにしなさい。》
このたとえ話で着目すべき点は、強盗に襲われた男を助け、親切に介抱したのが祭司でもレビ人でもなく、実は当時ユダヤ人が軽蔑し、忌み嫌って断交状態を続けていた「サマリヤ人であった」ということです。
私たちが「自分の隣人とは誰か」を考える時、頭に即思い浮かべるのは、この男同様に、親しい人々や気の合う仲間、自分の家族・同胞といった人たちではないでしょうか。
しかしイエス様は言われるのです。あえてあなたがたが「自分の隣人とは誰なのか」を知りたいと願うなら、それは『今まさにあなたの愛を必要としている人、その人こそがあなたの隣人なのだ』と。
極論を言えば、そこにはあなたの好きや嫌いという感情は関係がなく、また相手の事情を理解できるとか出来ないといった事もまったく意味のないことなのです。ましてや敵とか味方とかの区別的差別的考えもありません。
神の律法は最初から私たちに命じています《互いに愛し合いなさい》と。愛を必要としている人に、無償であなたの愛を与えなさい、と。だからこそ神もまた、あなたに対して無限の愛を注いでくださっているのです。あなたには愛が必要だから。あなたにも、愛が必要だからです。
さて、この世界にはあなたの愛を「いま必要としている人」が大勢います。彼は病に臥せっている人かも知れません。彼女は貧困に喘いでいる人かも知れません。また孤独に打ちひしがれている人かも。
そのような人々を知っていながら、あなたがその前をただに通り過ぎるだけの人であるなら、永遠のいのちは永久にあなたのものとなることはないでしょう。なぜなら、神は愛なる方であり、いのちはその愛の中にあるからです。
私の隣人とは一体誰なんだろうと、人物を特定することが本当に意味あることなのではなく、むしろ《あなたも行って、同じようにしなさい》と命じられているように、誰に対しても無償の愛をもって行動を表わすこと、愛を必要としている場所にあなたの愛を具体的に届けることが最も重要なこととして求められているのです。
□□ 聖書の言葉 □□
ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを
知りたいと思いますか。
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、
行ないのない信仰は、死んでいるのです。
(新約聖書 ヤコブの手紙 2章 20,26節)
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされ
ました。ここに愛があるのです。
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4章8,10節)
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ユダヤ人とサマリヤ人との反目
イスラエルはかつて、ソロモン王以降の旧約時代において、北王国イスラエルと南王国ユダとに分裂していた。
サマリヤ人というのは、紀元前722年に北王国イスラエルの首都サマリヤが陥落した後、アッシリヤから新たに移植された外国人と結婚した残留イスラエル人の子孫たちのことである。
彼らは、実際上様々な面で、南王国ユダの人々とは協力せず、反目しあっていた。その原因として考えられることは、ユダヤ民族としての純粋な血統を重んじる南ユダの人々から見た場合に、サマリヤ人の「混血」という人種的過去にユダヤ人が嫌悪感を抱いたからである。
また南王国ユダは北王国滅亡後約140年して、紀元前586年にバビロニヤ帝国により滅ぼされた。有名なバビロン捕囚という憂き目に彼らは遭った。 やがて捕囚が解かれたとき、ユダの地に戻ってきた人々は破壊されたエルサレム神殿の再建にとりかかることにした。その際サマリヤ人たちが、自分たちも再建に協力したいとの申し出をしてきた。が、ユダヤ人たちはそれを受け入れなかったのである。
そこでこれに怒ったサマリヤ人たちは、彼らの工事を妨害する敵方につき、あらゆる工作をもって神殿再建の工期を遅らせたのであった。
サマリヤ人はユダヤ人と同じく神を礼拝する。その拠り所はモーセ五書で、ユダヤ教の五書とほとんど変わらない。しかし礼拝はゲリジム山に建てられた神殿において行なわれ、エルサレム神殿のそれに対抗する場所とした。
もっともこの神殿も、ユダヤの王ヒルカノスによって紀元前128年には破壊されてしまい、このことがさらに互いの間の反目を深める要因となった。
(参考資料:聖書ガイドブック、他)
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