| >> 記事トピックス一覧 |
ちょっとおもしろい聖書のお話
発行日時: 2007/10/10
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
■ KASAI BIBLE SQUARE □
□ ■
■ 「ちょっとおもしろい聖書のお話」 No.45 □
□ ■
■ 2007年10月9日(火) 毎月1回発行 □
□ 発行元 ■
■ KASAI BIBLE SQUARE ヤッチャンCopyright(C) 2003 □
□ メール kbs@mbm.nifty.com ■
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
『聖書にみる人間の構造』 No.44
「不信仰によるささげ物」
創世記4:2〜16 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。ア
ベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持っ
て来た。
また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それ
も自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を
留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、
カインはひどく怒り、顔を伏せた。
そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っている
のか。なぜ、顔を伏せているのか。
あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あ
なたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あ
なたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきであ
る。」
しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではない
か。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いか
かり、彼を殺した。
主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問わ
れた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なの
でしょうか。」
そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをした
のか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。
今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いて
あなたの手から、あなたの弟の血を受けた。
それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのた
めにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人と
なるのだ。」
カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれま
せん。
ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあ
なたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなけれ
ばなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょ
う。」
主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、
七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を
殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。
それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住
みついた。
詩篇32篇1〜11節
ダビデのマスキール
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないそ
の人は。
私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果て
ました。
それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏
のひでりでかわききったからです。セラ
私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、
あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ
それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いでき
る間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。
あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、
私を取り囲まれます。セラ
わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わた
しはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。そ
れらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。
悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、
その人を取り囲む。
正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人た
ちよ。喜びの声をあげよ。
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」
アダムとエバは罪のゆえに神の栄光を失い、罪の象徴として自分た
ちが裸であることを自覚し、自分たちの存在を恥ずかしいものとし、
裸を隠しました。しかし、神は彼らに皮の衣を着せ、彼らに罪を覆
い隠しました。彼らのそむきは赦され、神は彼らの咎を消されまし
た。現代においてはキリストという聖い衣を着ることによって私た
ち人間の罪はおおわれ、そむきの咎は消されます。
さて、兄・カインは土を耕す者となり、弟アベルは羊を飼う者とな
りました。カインは兄で先に生まれた者であり、アベルは弟で後で
生まれた者です。一般的に考えれば、兄カインの方に弟アベルより
先に職業の選択権があります。つまり、兄カインが何を仕事として
生活するか?の選択の優先権がありました。カインが「私は羊飼い
になる」と先に言えば、カインが羊飼いとな、アベルが土地を耕す
者となったかもしれません。詳しい状況は判りませんが、なぜか、
カインは土地を耕す者となりました。これは、カインがアベルより
先に自分で選択した職業です。当時は人類の時代の始まりであり、
現代のような様々な職業があったわけではありません。生きていく
ための食物を得るために、単純に大地を耕して農作物を作るか、家
畜や猟をして肉を食べるかの二通りありました。カインは土を耕し
て農作物を作ること生きる糧として選びました。
前に述べたように、カインが耕した地は「呪われた地」です。カイ
ンとアベルは、両親アダムとエバから自分たちはいのちと祝福に満
ちたエデンの園から追放され、呪われた地で生きていかなければな
らないことを聞いたはずです。そして、神によって皮の衣を着せら
れ、それが彼らの救いであったことも。弟アベルは両親からの話を
聞いて罪と救いを信じました。けれど、兄カインは信じませんでし
た。いや、話をちゃんと聞いて信じていたのですが、カインの信仰
は観念的な信仰だったのです。観念的な信仰とは、現実を無視して
物事を抽象的、空想的に捉える信仰です。カインは両親から聞いた
神様の話を抽象的、空想的に信じていたのです。神を現実として信
じていたわけではありません。新約聖書のヤコブの手紙に信仰と行
ないについて、次のように書いてあります。
ヤコブ2:14〜18 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰がある
と言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。
そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ
物にもこと欠いているようなときに、
あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。
暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要
な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけ
では、死んだものです。
さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っている
が、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私
に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見
せてあげます。」
ここでヤコブは、「信仰は行ないである」と言っています。つまり
「信仰による実を結びなさい」と言っているのです。ヤコブが求め
ている「信仰による行ない」とは、「信仰という抽象的な概念を、
日々の生活のなかで実体のある具体的に目に見える形で具現化して
行くこと」です。
「神を信じているなら、結果として愛を動機とした行ないによる実
を結ぶはずです。」と言っています。
神は愛です。神を信じる生活をするなら、当然日常生活は愛を動機
とした行動による生活となり、困った人を助けたり、争いのない人
間関係や家族関係が築き上げられ、愛が信仰の実として結ばれるは
ずです。見えない神の愛を、世の人々に見える形で具現化すること
が、神を信じる人の使命です。信仰に行ないが伴わないなら、それ
は真の信仰ではありません。神に受け入れられる信仰ではありませ
ん。真の信仰だけが神に受け入れられ、喜ばれます。
以前に私は「人間の行動の原理は、その人が信じる対象(神)にあ
る」と書きました。人間は何を神として信じるか?によってその人
の行動原理、すなわち人生の生き方が決まってきます。
アベルは両親から聞いた神を信じ、どうしたらその神に喜ばれるか、
考えた結果、最良の羊の初子を神にささげました。アベルの信仰の
行ないの結果が、神に喜ばれ受け入れられるささげ物となりました。
一方の兄カインは、観念的、空想的な神の概念による信仰でした。
なぜ、地を耕す生活を選んだのか、その理由は聖書に書いてありま
せん。家畜を世話するより農地を耕すのが楽だと思ったのか、理由
は判りません。ただ、前にも述べたように、彼らが耕す土地は、人
の罪によって呪われてしまった大地です。呪われた大地から収穫し
た作物を持って来ても、神はそれをそのまま受け入れることはでき
ません。呪われた土地から収穫した作物は、神の前では呪われた作
物でしかありません。弟アベルはそれを信仰によって理解していま
した。
アベルは自分が罪人であることを自覚していました。そして罪の赦
しと感謝の象徴として、最良の羊を神にささげました。
アダムとエバは罪によって目が開かれ、自分たちが裸であることを
自覚し、恥ずかしくて体をいちじくの葉で覆い隠しました。
カインとアベルも、小さい頃は裸でも恥ずかしさは自覚しませんが、
年頃となれば裸であることが恥ずかしくなり腰に覆いを付けて裸を
隠したことでしょう。それは現代の私たちも同じです。幼稚園の頃
までは裸でもキャッキャッはしゃいでいますが、小学生頃になれば
裸に恥ずかしさを感じ始めます。
カインとアベルはそれまでは特に悪いことをしたわけではありませ
ん。しかし、ある時期になり、すなわち年頃になり裸であることに
恥ずかしさを覚えました。これは、人間が神の栄光を失い、罪人で
あることの証です。
聖書は「人はみな罪人である」と定義しています。人は皆、生まれ
つき神の栄光を失い恥ずかしい存在でしかありません。アベルはそ
れを自覚しながら自分が罪人であることを認め、罪の赦しと感謝を
ささげるために、最良の羊の初子を神にささげました。アベルの信
仰による行ないです。
一方、カインは地の作物を神に持って来ました。前に述べたように、
カインは自分でささげ物を持って来た訳ではありません。アダムか
アベルに頼んで義務的に持ってきました。しかも、呪われた地から
収穫した作物です。神はそれを喜ばず、受け入れることが出来ませ
んでした。カインのささげ物はカインの行動原理、カインの観念的、
抽象的、空想的な信仰の結果です。生きた神への信仰は、アベルの
信仰のように神からの応答があり、必ず受け入れられます。
信仰は、聖書(神)の教えに単に同意することではありません。人
生の方向を変えることが信仰の歩みです。カインの信仰は観念的、
抽象的、空想的な信仰であり、その信仰の中心にあるものは「自分」
です。自分中心の信仰です。自分で考え、自分で想像し、自分を満
足させてくれる神の概念です。いやゆる「自己中心」というやつで
す。まず自分という存在が在って、その次に神様が存在するという
信仰です。
カインは自分なりに考えて、こうすれば神は喜ぶと思って神へのさ
さげ物を持って来ました。ところが神はそれを受け入れませんでし
た。それでカインは憤りました。カインが憤ったのは、自分が労し
て持ってきたささげ物を神が受け入れなかったからです。これが自
己中心の信仰です。自分の思い通りにならなければ、自分の行ない
が報われなければ、相手は誰であろうが許せません。神との相対関
係において、自分が「主」で神が「従」という立場です。普段、問
題なく順調にいっているときは自分が「従」の立場を装います。し
かし、ひとつ問題が起きると本音が出て来ます。自己中心が頭をも
たげて起き上がって来ます。自己中心の本質は神の論理より自分の
論理が正しいのです。
律法学者、パリサイ人は旧約聖書を研究し、イスラエルの神を信じ
ていました。しかし、ことごとくイエス・キリストとぶつかり合い、
イエスの信仰より自分たちの信仰が正しいと主張し、自分たちを義
としました。これが、自己中心による信仰です。イエスの信仰は人
々の病を癒し問題を解決したのでいつも群集がイエスの周りを取り
囲んでいました。律法学者、パリサイ人はこのままでは自分たちの
信仰、立場が脅かされ、自分たちの存在そのものが社会に埋没して
しまうという危機感を持っていました。自分たちが生き延びるため
にはにキリストを抹殺するしかありません。キリストが存在してい
る限り、自分たちの信仰、立場が否定され続けます。ですから彼ら
にとってキリストの存在そのものが許せないのです。だから、結局、
自分たちの論理でイエスを罪人に仕立て上げ、十字架につけて殺し
てしまいした。
カインも律法学者、パリサイ人と同じです。
神は弟アベルのささげ物に目を留め、兄カインのささげ物には目を
留められませんでした。兄貴としてのカインのプライドが傷つけら
れ、兄としての面子は丸潰れです。さしずめ「後から生まれた弟が
優遇され、なんで先に生まれた俺様に神は冷たくするんだ。神の野
郎ふざけんじゃねんぞ」という感じでしょう。カインは神に怒りま
したが、なにしろ相手は目に見ることも、手で触ることもできない
神ですから、怒りをぶつけようがありません。そこで、カインは神
への怒の矛先を弟アベルに向けました。カインはアベルが嫉ましく、
アベルの存在そのものが許せないのです。弟に自分のプライドを傷
つけられたのですから。そして、アベルを野に誘いだし、襲い掛か
り殺しました。
前に述べたように、罪の中心にあるのは自己中心です。サタンは人
間の自己中心を刺激して人類を破壊へと誘います。
イエス・キリストはあるときこう言われました。
マタイ6:14だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。
一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりす
るからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるという
ことはできません。
ここでは神と富を対比していますが、神と人間も同じです。神に仕
えるか、人間に仕えるか。神に仕えるか、自分に仕えるか。
アベルは罪を自覚し、神の救いを信じました。神との関係で自分が
低い立場にありました。しかし、カインは観念的に神を信じ、自分
中心の信仰で、神より自分の立場が高いところにありました。
神は謙る者とともに居ます。
------------------------次回に続く---------------------------
本文の聖書のことばは 日本聖書刊行会「聖書・新改訳」を引用して
います。
-------------------------------------------------------------
このメルマガを読んでいる人はこんなメルマガも読んでいます
- 成長するクリスチャン
- 子供の成長を願わない親はいませんね。同じように神様は、その子となったクリスチャンが、聖書の全てのみ言葉を栄養にして、大人に成長するように願っておられ...
- 聖書からのショートメッセージ
- 関西人クリスチャンのHallelujah!!です。聖書からの短いメッセージで、あなたに元気を贈ります。永遠のいのち、十字架、罪、赦し、救い、癒し、祈...
- 賢者の道
- 自分の人生と向き合う時、生きることが難しい時代に「聖書の教え」を解説しています。どうぞ、お楽しみに!
- キリスト教案内マガジン「愛の道」
- プロテスタント・キリスト教会の発行です。教会に行ったことがない皆様や、信仰暦の新しい皆様にも、聖書の信仰と文化、教会の様子などを、楽しく、分かりや...
- 聖書を開けば・・・
- 聖書やキリスト教に大いに興味ある方。是非このマガジンをご利用ください。聖書からのショートメッセージを主体に、随時ながら関連するマメ知識や雑談などを掲...
![メルマガスタンド[メルマ!]](/img/common/melma_logo.gif)








