子供の成長を願わない親はいませんね。同じように神様は、その子となったクリスチャンが、聖書の全てのみ言葉を栄養にして、大人に成長するように願っておられます。これは成長なさりたいクリスチャンのための励ましのメ−ルマガジンじんです。
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救いは取り消されるか?クリスチャン評論(4)
発行日: 2008/5/10「悔い改め」とは、過去を捨て、新しい生を求めて神に立ち帰ることとも定義できますが、その根底に謙虚な心がなければ、真の悔い改めにはならないでしょう。
「救いは取り消されることがあるのか?」の議論をすること自体、それは、神の判断を人間が代行するという傲慢そのものではないかと私は思います。
しかしそう言ったのでは、評論にはなりませんので、続けます。
謙虚な、心からの悔い改めを、詩篇は記しています。
ダビデの悔い改めを主なる神が聞き入れてくださって、ダビデは救いから除かれることはなかったと昨日書きましたが、以下がそれです。
詩篇
−ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき−
51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。
51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。
51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。
51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
51:18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。
51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、彼らは、雄の子牛をあなたの祭壇にささげましょう。
(詩篇引用終り)
謙虚な悔い改めに対して主は、イスラエルの民に、約束されます。
エゼキエル 18:1 主の言葉がわたしに臨んだ。
18:21 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。
18:22 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。
18:23 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
さてここで、犯した罪とその罪の赦しについて、バプテスマと関連させて考えます。
バプテスマとは何かについてある聖書辞典は次のように述べています。
バプテスマは、信じる者の内に起った霊的出来事を、水のバプテスマをもって公に表明する信仰の告白であると言うことができる。また、
ローマ 6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
とあるような、新しい生き方をする証しをすることでもある。
しかし、バプテスマは、聖書の主張を受け入れてこれから生きるということのあかしとしての意味を持つのであって、信仰者としてすでに完成していることの保証印のようなものではないことを理解しておく必要がある。
(聖書辞典引用終り)
さて、「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きる者とされる」バプテスマは、過去の罪が全て帳消しにされたことを意味しますが、バプテスマは、「信仰者としてすでに完成していることの保証印のようなものではない」と説明されています。
生きるとは、肉にあっても生きることでもありますから、キリスト・イエスにあって生きる者とされたとしても、依然肉の罪を犯すことは明らかです。
だから、その時々に、「私はイエスを信じて救われたのだが、このように罪を犯すのでは、与えられた救いも取り消されるのではないか」と反省すべきなのでしょうか?
ヘブル 6:4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、(バプテスマを受け、聖餐に与り、聖霊の働きも体験し ・・などと書き換えることもできるでしょう)
6:5 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら(聖書を学び、神による超自然的な奇蹟もあることを知って ・・という意味にとることもできるでしょう)
6:6 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
と、厳しく自分自身を反省しなさいということなのでしょうか。
しかし、もしそうだとしたら、主なる神が、聖書のほかの箇所で言われていることと矛盾するのではないでしょうか?
そんな素朴な質問が、成長なさっている皆様に投げかけられるかも知れませんね。
ヨハネ 10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
イエスについて行く限り、クリスチャンは決して滅びることがなく、また、だれもイエスの手からクリスチャンを奪い去るようなことはない、つまり救われた者にとって、その救いは永遠だというのですが、それと、
「バプテスマを受けてその後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」
とが矛盾するというのです。
そこで来週は、ヘブル人への手紙に書かれていることの真意に迫りましょう。
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