新クリスチャン評論(1)予告編
発行日時: 2008/5/7今日は、久しぶりにクリスチャン評論を書き込みます。
評論といっても、キリスト教批判や、教派や教会の批判ではありません。
主を愛し隣人を愛するクリスチャンとして、社会の様々な問題とどう向き合うか、また、教会内外での人間関係において、自分自身はどのように生きればいいのか、などを広く考えようとするものです。
クリスチャンの生き方の指針は、もちろんみ言葉で、
詩篇 119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
しかし歩くのは自分です。
かって久保有政牧師の言葉を借りて、神の意志100%、人間の意志100%という言い方をしたことがありますが、どのような歩き方をするのかは、自分自身が決めなければなりません。主は私たちをロボットとして扱ってはおられないからです。
主のみ言葉に照らされて歩むとき、その歩み方について考えるのが、私の「クリスチャン評論」であるとお思いくだされば幸いです。
そこでは、聖書教義の学びとは異なる多くの問題に挑みます。
例を挙げましょう。
あるクリスチャンは、「病気は悪魔が与えるものです。わたしは病院に行かずに、信仰で癒されました」と主による癒しを讃え、自分の信仰を証ししました。
歴代誌下 16:12 それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。
を引用してのその方の証しは、病気になるとすぐ病院へ行くクリスチャンを批判するともとれる証しでした。
証しを聞いていた人たちは、みんな「アーメン」と言いましたが、そう言えるでしょうか?
主なる神が与えてくださる恵み(めぐみ)=恩寵(おんちょう)には、特別恩寵と一般恩寵とがあり、現代医学は一般恩寵で、信徒であるなしに関わらず誰にでも与えられる恩寵です。
それに対して、祈りによって病が癒されるのは、信徒に与えられる特別恩寵です。
クリスチャンの中には、特別恩寵を重視し一般恩寵には与ろうとしない、そしてそれが信仰の現れであるかのように思っている人がいますが、そうでしょうか。
これは、私の「クリスチャン評論」のひとつのテーマとなりましょう。
もうひとつのテーマは、難しい言葉を使いますが、adiaphorismです。
adiaphorismとは、聖書で自由裁量にゆだねられている行為・信条に対する寛容(主義)のことです。
たとえば、クリスチャンになったら、あるいはなるには、酒もタバコもやめなければいけないとか、礼拝に出席する女性はミニスカートでなく、ロングスカートをはいていなければならないなどです。
聖書にはないそれらの規則を、あたかも聖書にあるかのごとく付け加えるクリスチャンや教会指導者がいます。
聖書には、「酒に酔うな」とはあっても「飲むな」とは書いてありません。
煙草(たばこ)は15世紀にアメリカ大陸からヨーロッパに伝えられ、それ以前はスペインでは薬草類を "tabaco"と呼んでいたといいます。この言葉は聖書にはありません。
などは、いささか次元が低い話ですが、adiaphorismは、もっと重要なこととも関係します。
洗礼がその例で、受洗者の全身を水に入れる方式と、額に水で十字の印をつける方式とがあるのはご存知ですね。
どちらが聖書的でしょうか?じつは、聖書には、どちらにすべきかなどとは書いてはいないのです。
それなのに、教派や教会によっては、その方式に強くこだわっていて、はじめからその教会に連なっているクリスチャンは、そこでの洗礼の仕方が聖書が教える正しい洗礼であると思い込んでいることがあります。
さらに難しい問題に、「救いはとり消されることがあるのか?」がありますが、聖書を読めば読むほど、どちらともいえないのではないかという感じになります。矛盾するとも見える教義が聖書にはあるからです。
だから聖書の記述は深刻に考える必要はないというのでは全くありません。しかし聖書の教義にはどちらとも取れる部分、すなわち「グレーゾーン」があるのです。
これらをどう扱うかが、adiaphorismなのです。
クリスチャン評論では、今後この問題を具体的に取り上げます。
さらに次に取り上げる問題は、「神との関係がよければ、人間関係は自然によくなる」などのクリスチャンに多い誤解です。
また、「健全な信仰とは何か」とか「信仰という名の虐待」などの本が幾つも出版されている背景には、信仰に対する誤った考えもまたクリスチャンの間に見られます。それらについても挑戦するつもりです。
しかし、社会に生きるクリスチャンの生き方について、また、教会における人間関係をどう保つかについて考えるとき、私にとってのガイドラインは、いつ、いかなる場合であっても、次のみ言葉です。
ローマ
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
(続く)
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