| >> 記事トピックス一覧 |
信仰−教義ではなく実践−
発行日時: 2008/4/12今週は贖罪に関わる聖書教義(doctrine)についてまとめてみましたが、「聖書教義を学ぶこ
とで、今までよりも、聖書を深く読めるようになった」とおっしゃる方がいらっしゃいましたら、私の願いは、主がよしとしてくださったことになります。
しかし、「聖書教義を学ぶことで、信仰が強められた」とおっしゃる方は、いらっしゃるでしょうか?
たしかに間接的にはそういうこともあるかもしれませんが、信仰は理屈でもなく、納得でもありませんから、教義を学ぶことは、信仰を強めることとは別だと思います。
祈りもそうで、祈りとは何かを学んだからといって、その日から霊的な祈りができるとは限りません。
信仰と祈りに関しては、たとえその教義があって、それらを学んだとしても、それは、自転車や自動車の乗り方を本で勉強すれば乗れると思うことに似ています。
自動車学校では、実技と学科がありますが、学科だけでは車には乗れないのと同じです。
信仰は、聖霊に導かれなければ、強められず、祈りもまた、聖霊に助けられて、本当の祈りができるからです。
信仰に教義はありませんが、信仰とはどういうものかは聖書から学ばなければなりません。しかしそれは、贖罪のように教義ではないのです。
信仰とは信じることですが、信じるとはどういうことでしょうか。山谷省吾著「聖書小事典」にはこう書かれています。
信仰は新約聖書全体に行きわたっている重要語で、それだけに多義で真実、信頼、確信、決意などをも意味し、服従や希望とも密接に関係する。
成長なさっている先輩クリスチャンの皆様は、求道中の入門者の方に、「信じるってどういうことでしょうか?」と聞かれてすぐにお答えになれるように、さらに書き込みます。
1.福音書では
福音書の教えでは、イエスに信頼し、イエスにおける神の絶大な力の働き、救いの奇跡を疑わないで肯定することを教えています。
信仰は、恐れと疑いとを超え、人間には不可能と見えても、イエスのわざに顕われる神の働きに、すべてをゆだねる決意であり、神への絶対的な信頼で、それはイエスの「山を移すほどの信仰」の教えによく表わされています(マルコによる福音書11:22-23)。
マルコ 11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
しかし質問者は思うかもしれませんね。「そう言われたって ・・・。」
そうです。忍耐強く説明してあげなければなりません。でも先に言ったように説明は学科で、信仰りは実技です。
あるいは、先輩クリスチャンの生活態度こそが、後輩に対する説明であるともいえましょう。
次に別の角度から信仰とは何かを述べます。
2.初代教会では
イエスの死後、教会においては、キリストの十字架と復活とに要約される福音の内容を説教で聞いて、信じることが信仰であるとされました。
神の愛はキリストの人格、業(わざ)、言葉、そしてとくに十字架と復活にあらわれたので、人間はこのキリストを救い主と信じ、神の愛に信頼する。これが信仰なのです。
ここで重要なことは、信仰は人間の決意をもって始まるが、その背後には聖霊の働きがあるということです。
使徒パウロは、はっきりと教えています。
第一コリント 12:3 聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
聖霊に助けられる信仰を、あえて教義的に説明すれば、次ぎのようになるでしょう。
聖霊は人間を新しくし、信仰によって歩ませ、神の意志に服従させる。
さらに、信仰は霊なるキリストと交わることであり、それによってキリストの死と命とにあずかり、次第にキリストの栄光の姿へと変えられていくことである。
3.パウロの神学
パウロは、「信仰によって義とされる」ことを、ユダヤ教の「律法の行ないによって義とされる」との教えに対立して主張しています。
ローマの人々への手紙から −信仰による義−
ローマ 3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
4.終末思想
救いの完成は終末の日に待たねばならないから、信仰は希望と等しい態度をも意味します。信仰者は、現在まだ実現されていないが将来必ず実現される神の約束を信じ、忍耐をもって待ち望むのです。
上記の1.−4.で述べたこと、これらが信仰なのです。
しかしもう一度言います。信仰が何か?が分ったとしても、信仰は強められません。
祈りもまた同じです。
来週は、信仰について、さらに聖書を学びます。
このメルマガを読んでいる人はこんなメルマガも読んでいます
- シオンとの架け橋・イスラエルニュース
- イスラエルの政治・宗教・社会・和平などに関して、日本国内では報じられない現地ニュースを中心に週2回配信します。3日分のニュースが5分で読めます。
- 花柳幻舟さんとあれこれ考えてみる
- 小学校中退で大学卒業の創作舞踊家・花柳幻舟と仲間たちが、日常の出来事から内外の政治、経済、教育等々の小さな疑問や大きな矛盾について、自由でユニークな...
- 【いざ、日本再生へ!】 日本再生ニュース
- 「わが国のあり方はこれでいいのか」「日本は国家としてのバックボーンが失われつつあるのではないか」との問題意識のもと、日本の伝統的な価値の「再建」を広...
- 暦のツボ
- 「○○の日」って、誰がどうやって決めたの?「旬の魚」って、どんな魚なの?生活や食、歴史の視点から、暦や記念日に関する疑問を一歩踏み込んでズバッと解決...
- 昭和一桁生まれの「ひとりごと」
- 戦後62年。平成生まれの若者はもう19歳。昭和もすでに古くなりつつあります。しかし今の日本を語る上で激動の昭和を避けて通ることはできません。昭和の生...
![メルマガスタンド[メルマ!]](/img/common/melma_logo.gif)






