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血の教義(1)
発行日時: 2008/4/3今日から、聖書の教義「血」について書き込みます。
少し意外なテーマだとお思いかもしれませんが、
「主イエスの血潮、主イエスの血潮、主イエスの血潮、罪を洗う。 / われを救う。 / われを癒す。
(ヨハネ第一1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。)
という日本語のプレーズ・アンド・ワーシップ・ソングはご存知ですね。
私の知っている原歌詞は、O the Blood of Jesus, O the Blood of Jesus,
O the Blood of Jesus, It washes white as snow. で、引用は
" . . . and the blood of Jesus Christ his Son cleanseth us from all sin." (1 John 1:7b KJV)
" . . . though your sins be as scarlet, they shall be white as snow." (Isaiah 1:18b KJV)
です。
これは、クリスチャンになってみなければ全く分らない、日本人には何のことか全く分らない血の教義かもしれませんね。
キリスト教が、仏教文化と古代アニミズムの流れの中にある神道文化の国日本で、受け容れられない理由には、多くの論説があります。
それは、狩猟民族と農耕民族の違いに基づき、前者が一神教、後者が多神教だなんて、一見うがった結論付けをする人たちもいます。
ところで、血の教義は、これはまさに狩猟民族のものですね。
黙示録を開いてください。
黙示7:9-17 白い衣を着た大群衆
7:9 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、
7:14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
その衣を小羊の血で洗って白くしたとは、肉体が義認され、聖化され、そして復活によって栄化された信徒たちのことですが、これを仏教文化の中で育った日本人が理解することは、非常に難しいでしょう。
禊(みそぎ)をして、穢(けがれ)れを水で流し去ることができると信じる日本人には、キリスト教の洗礼はいくらか分るとしても、イエスの血潮によって罪が洗われるとする教義は、理解をはるかに超えたものでしょう。
クリスチャンになりたての人は、レビ記を教えられることはないでしょうから、イエスの十字架は象徴的にしか理解できません。しかし、旧約聖書でレビ記を学ぶにつれて、イエスの血潮が何を意味するかが分ってきます。
レビ記から
◆焼き尽くす献げ物
レビ記1:1 主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。
1:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。
1:4 手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。
1:5 奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。
◆和解の献げ物
レビ記 3:1 献げ物を和解の献げ物とするときは、
3:7 羊を献げ物とする場合は、奉納者はそれを主の御前に引いて行き、
3:8 手を献げ物とする羊の頭に置き、臨在の幕屋の前で屠ると、アロンの子らは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。
3:16 祭司はこれを祭壇で燃やして煙にする。これが宥めの香りとして、燃やしてささげる食物である。脂肪はすべて主のものである。
3:17 脂肪と血は決して食べてはならない。これはあなたたちがどこに住もうとも、代々にわたって守るべき不変の定めである。
◆贖罪の献げ物
レビ記 4:1 主はモーセに仰せになった。
4:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。これは過って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である。
4:3 油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主にささげる。
4:4 まず牛を臨在の幕屋の入り口に引いて行き、主の御前に立ち、その頭に手を置き、主の御前で牛を屠る。
4:5 油注がれた祭司は牛の血を取って臨在の幕屋に携えて入り、
4:6 指を血に浸して、聖なる垂れ幕の前で主の御前に七度血を振りまく。
4:7 次に、血を臨在の幕屋の中にある香をたく祭壇の四隅の角に塗る。残りの血は、全部臨在の幕屋の入り口にある焼き尽くす献げ物の祭壇の基に流す。
4:10 和解の献げ物の牛の場合と同じようにして切り取って、焼き尽くす献げ物の祭壇で燃やして煙にする。
4:13 イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、そのことが会衆の目にあらわにならなくても、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、
4:14 その違反の罪に気づいたときは、会衆は若い雄牛を贖罪の献げ物としてささげ、それを臨在の幕屋の前に引いて行く。
4:15 共同体の長老たちは主の御前に立って牛の頭に手を置き、主の御前でその牛を屠る。
4:16 油注がれた祭司は牛の血を取って、臨在の幕屋に携えて入り、
4:17 指を血に浸し、垂れ幕の前で主の御前に七度血を振りまく。
4:18 次に、血を臨在の幕屋の中の主の御前にある祭壇の四隅の角に塗り、残りの血は全部、臨在の幕屋の入り口にある焼き尽くす献げ物の祭壇の基に流す。
神道には、このような儀式は全くありません。
また仏教では殺生を戒めていますから、日本人には到底分らない「血によるきよめ」です。
では、清めについて、神道ではどうでしょうか?神道の清めは、次のように言われています。(少しわき道にそれますが、キリスト教との比較において重要ですから、学びましょう。)
神道においては、何よりもまず清浄を尊ぶ。穢(けが)れのある状態で神迎えをしても、神はその不浄を嫌われて、祭りは成立しない。
したがって神を祀るにあたり、心身の罪穢(つみけがれ)を去るために、禊(みそぎ)をなし、物忌み(ものいみ)をするのである。
禊(みそぎ)とは身体に付着した汚穢(おわい)を洗い流して清浄にすることで、イザナギ神が、黄泉国、すなわち死の国の穢(けがれ)を筑紫の日向の橘の小門(九州の鵜戸岬と推定されている)で、海に入り、穢れを落としたことに由来する。
神社によっては海辺または川辺で禊(みそぎ)を行い、滝にうたれ、井戸水を浴びて身を清めている。
その水をかぶる要領は、まず腰から下の方に水をかけ、次に両肩にかけ、最後に頭からかぶるということになっている。
また手水といって口と手を洗い清めたり、祓い(はらい)のときに塩のはいった水(専門的には塩湯という)を注いだりする。
(力士が土俵で塩をまくのも、料理屋などで入り口に盛塩をするのも、お通夜や告別式の来訪者に「お清め」と書かれた塩の小袋を渡すのも、この祓い(はらい)に由来しています。)
禊(みそぎ)とは「身削ぎ」であり、「霊注ぎ」であって、心身の穢れを削り取り、かつまた神霊を降(ふ)り注ぐことであるという説もある。
禊(みそぎ)のときの服装は白衣、白袴、白鉢巻き、素足で白い緒の草履を履く。
1.まず服を脱ぎ、腰のもの一つとなる。
2.次に『祓詞(はらえことば)』を唱える。
3.次に鳥船行事を行う。これは和船の櫓を漕ぐ動作を「イーエッ」「エーイッ」などの声を出しつつ行う。
ところで、キリスト教を知らない人たちから、禊(みそぎ)と洗礼の違いを質問されることがあります。答えを用意しておきましょう。
これまた血の教義からずれるかもしれませんが、宗教の比較は必要です。
禊(みそぎ)は、浄化儀式ですから、斎戒沐浴(さいかいもくよく、注参照)など似たようなことが、古来いろいろな宗教や国で行われていました。また禊(みそぎ)は浄化が目的ですから、それが必要な時々に幾度も繰り返して行われます。
注)「斎」は心の不浄を浄める意、「戒」は身の過ちを戒める意で、 飲食・動作を慎んで、心身を清めること。「沐」は髪を洗う、「浴」は体を洗うの意で、心身を洗うこと。
旧約聖書には浄化儀式としての洗身について書かれていますが、それ以降は異なる意味を与えられています。
レビ記 15:13 漏出のある人が、それがやんで清くなったならば、清めの期間としての七日間を経た後、衣服を水洗いし、新鮮な水で身を洗うと、清くなる。
これに対して、新約聖書での洗礼は単なる浄化でなく、もっと深い意味を持ち、その儀式は一回限りです。
新約聖書が伝える洗礼は、まず、マルコの福音書に書かれている悔い改めの洗礼です。
マルコ1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
そして、初代教会の洗礼(バプテスマ)は、使徒や伝道者などによって行われ、これを受ける者は、イエスに対する信仰を告白して受洗し、以来、それが続いているのです。
使徒2:40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
要するに、神道の禊(みそぎ)は、水や塩による穢(けがれ)の浄化ですが、キリスト教における罪の穢れからの清めは、イエスが十字架で流された尊い血潮によるのです。
イエスの血潮によって、私たちは日々清められて生きていくことができます。
水による洗礼は、神道の禊(みそぎ)に似ていますが、悔い改め、イエスを信じて罪が赦され、神の子とされる儀式です。
それはクリスチャンになろうと決心したときの一度だけの儀式です。
日々の清めではありません。日々の清めはイエスの血潮です。
キリスト教を知らない質問者には、こう説明しましょう。
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