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恵みと慈悲
発行日時: 2008/3/29「祝福」とは、「神の愛による恵みを与えられること」と定義されますが、そうなると、恵みとは?愛とは?を定義しなければならなくなり、仏教文化の中で育った日本人からは、「慈悲と恵み」、「慈悲と愛」のそれぞれの違いについて質問されるでしょう。
いずれもなんとなく分っていても、聖書に基づいて、また仏教の教えに照らして、それらの違いを説明することは決して容易ではありません。
慈悲については、簡単に言ってしまえばこうです。
楽をあたえることを「慈」といい、苦を抜くことを「悲」というと定義されています。これを抜苦与楽(ばっくよらく)といい、仏・菩薩(仏になるべく修行中の人)の無辺の慈悲心を大悲という。・・・これが仏教教理での慈悲の説明です。
「恵みとは、愛なる神の人間に対する好意またはそれに基づく働きかけである」。これが聖書教理の説明です。それは、特に受けるに値しない対象に向けられた神のいつくしみであると付加説明がされます。
聖書辞典の説明は次です。
パウロは「恵み」の聖書的概念の完成者であると言えよう.
彼によると,
1.恵みは全く価なしの神の賜物である(ロマ5:15,エペソ3:7).
2.恵みは,信仰によってのみ神からいただくことができる.
3.神はイエスを救い主として信じる者にあふれるばかりにこの恵みを注がれるのであって,善行の報酬としていただくものではない.神からの一方的な賜物として与えられるのである(ロマ3:24).
4.恵みをいただく手段は信仰である.しかし実は信仰そのものも神の賜物である(エペソ2:8).
5.賜物としての恵みが神から罪人に与えられるのは,人間の側に何かそれをいただくに値する値打ちがあるからではない.
6.神御自身の御旨のよしとするところに従って恵みは与えられる.この恵みは救いに至る恵みと言うことができる.
さらに、 地上に生を受けるすべての人に共通に与えられる恵みがある.この世の罪の抑制,真理,道徳,宗教,この世の善,社会正義の保持,それに自然の恵みの一般的供与などはこの恵みによるのである(マタイ5:45,ロマ2:14‐15).
ここで結論を急げば、仏の慈悲とは抜苦与楽の人間の思想であり、神の恵みとは、受ける値のない人間に対する全知全能の神の(愛に基づく)好意であるということになるでしょうか。
仏は所詮人間ですから、その「慈悲」とは、人間愛としての抜苦与楽の願いです。それに対して「恵み」とは、人間を超越した神からの、それに値しない人間に対する神の愛としての好意です。
ですから「慈悲」と「恵み」とは、人間と神という、それぞれに次元の違う好意、同情心あるいは願いの概念の差といえましょう。
次に恵みと慈悲について語源を探ってみましょう。
「恵み」という日本語に該当する英語のgraceは,ラテン語のgratiaから派生し,gratiaはギリシヤ語のカリス(charis)をラテンの世界に訳したことばだそうです。もともとギリシヤの世界で「カリス」は、好意や親切、またそれに基づいた行動を指すことばです。
日本語の慈悲の慈とは、サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」で、本来は「友情」「同志」の意味であるとされています。
しかもそれは、ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。したがって慈とは、このような一切の人々に対する平等の友情を言うとされています。
次に、サンスクリット語の「カルナ」は「優しい」「哀れむべき」という言葉で、その原意は「呻き」(うめき)にあるといいいます。
「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。
そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲である。
仏教の解説書ではこう教えています。
ここまで理屈っぽく述べましたから、さらにいくつかの解説書も見てみましょう。という。
わたしたちは人生の苦しみのなかで坤き声を発します。この坤き声を発した者のみが、よく他人の苦しみを理解できるのです。そして、他人の苦しみをともに苦しむことができます。そのともに苦しむ行為が「悲」なのです。
したがって、仏教でいう「慈悲」は、他人を理解し、他人と共感することです。人間は孤独です。孤独のうちに苦しみ、坤吟しているわたしたちに、もし理解者が現われ、その人がともに坤き声を発してくれたとしたら、わたしたちはどれだけ救われるでしょうか。それが、「慈悲」なのです。
そして、じつをいえば、いつもわたしたちとともに陣き声を発してくださっているのが、仏であります。仏教では、仏を、人間の真の理解者・共感者だと見ているのです。つまり、仏は「慈悲」の存在なのです。
注)ここで問題となるのは、仏とは?です。仏とは悟りを得た知者で、釈迦の称号でした。しかし、釈迦は、慈悲について教えてはいません。慈悲は、後世の大乗仏教への宗教改革の際に提案された、宗教哲学的思考の産物でしかないことに注目しましょう。
「恵み」は啓示にもとづいて与えられたものですが、慈悲は人間の思考から導き出された思考なのです。
佛教教理によれば、慈悲には、衆生縁、法縁、無縁の3つがあるとされています。
1.衆生縁とは衆生(しゅじょう)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。
2.法縁(ほうえん)とは、すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。
3.無縁とは慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心である。
この三縁の慈悲とは、第一は一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、第二は聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、第三は仏の哀愍の心であると言える。この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ)と言える。
ここで仏教徒のクリスチャン批判を紹介しておきます。彼らは言います。
仏教の慈悲は、キリスト教のいう「人々への憐愍の思い」ではない。
いっさいは同体である、一体であるという自覚の働くすがたである。このような心が、本当の人間の心であるというのが仏教の思想であり、そこにこそ成仏が常に他を救うことによって、初めて成り立つ自己の成仏といわれる理由がある。
ここまで来ると私も手に負えなくなります。仏教では愛は愛欲であるとして退けていますから、神の愛を語っても仏教徒には理解できません。
また彼らは人間の心の哲学を語りますが、神のみ心などは分りようもないのです。
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