子供の成長を願わない親はいませんね。同じように神様は、その子となったクリスチャンが、聖書の全てのみ言葉を栄養にして、大人に成長するように願っておられます。これは成長なさりたいクリスチャンのための励ましのメ−ルマガジンじんです。
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信仰の教義(9)ボンケ牧師の著書から(3)
発行日: 2008/1/16信仰とは何かについて書かれたクリスチャンブックが多くありますが、その中には聖書に照らして誤りと思われるものもあります。
そういう私も、書き込みで誤りを犯しているかもしれません。いえ、あると思います。
初心者にとってその見分け方は難しいでしょうが、成長なさっている皆様ならば、十分に吟味ならることができるでしょう。
聖書では、はたしてそう言っているだろうかという疑問をいつも持つことは必要です。
聖書から離れた、あるいは聖句を自分の主張にあわせての説得には、見極めの霊が働いてくださるように願いましょう。
ボンケ牧師も次のような指摘をしています。
少しややこしい表現もありますので、注意してお読みください。
例えば、「祈りのない信仰は可能です。しかし、信仰のない祈りは無益です。」などです。
ボンケ牧師の指摘する祈りの姿勢
祈りは、神の臨在を造り出すものではありません。
私たちが祈るのは、神がすでにご臨在なさっているからです。もしも神が臨在なさっていないのであれば、私たちの祈りは、せいぜいが天井に届く程度であり、御座に届くものではありません。
また、私たちとともにいて下さるのは、まさに神ご自身です。その指や御顔、あるいはぼんやりとした光の輝きだけがともにいて下さるというわけではありません。
あるいは、時には、多く祈れば祈るほど、神さまの御力やご臨在が密度を増していくという考えも耳にします。
また、御力が完全に均整の取れた形で現れるのは、そのことを祈って時間を費やしたときであると書いた人もありました。
しかし、そのような考えは、聖書の御言葉のどこにも見出すことができません。
そればかりか、聖霊のバプテスマの出来事以降、私たちに対して、力を求めて祈るようにと勧める箇所は全くありません。キリストのご臨在こそ「クリスチャンにとって唯一確実なもの」であるとされています。
使徒の働き3章には、ペテロとヨハネが祈りに行こうとする途中で、足の萎えた人がいやされるという箇所がありますが、これを見ると、二人は彼のために祈ってはいないということがわかります。
使途の働き
3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
3:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
彼らはその人を、祈りを捧げることなくいやすことができました。
それは、キリストが彼らとともにおられたからで、キリストが私たちと共にいてくださるという信仰は、私たちに刺激と励ましを与え、私たちを祈へと導きます。
キリストが聞いて下さっていることがわかれば、そのキリストに語りかけたいと願うのは当然のことです。
祈らないのは、キリストが聞いて下さっていると信じていないからです。イエスさまはお祈りになりました。それは、何にもまして、イエスが父なる神さまに対して、完全でかつきわめて近い意識を抱いておられたからです。
イエスはお語りになりました。
ヨハネ 11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、わたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」とイエスは言われたのです。
聖書の言葉は、時として、イエスがお祈りになったとさえ語ることをせず、ただ御顔を上げ、「お語りになった」と語るだけのこともあります。
祈りのない信仰は可能です。しかし、信仰のない祈りは無益です。
(続く)
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