つまづき(15)
発行日時: 2006/11/18続きですが、先に紹介したあるクリスチャンブックに、次のような解説があります。
聖書箇所
ヘブル
6:4 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
6:5 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
6:6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
6:7 土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
6:8 しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
ある解説
この箇所はしばしば、救われた後に堕落してしまうなら、もう元に戻れない、すなわち救いを失ってしまうと言っているのだと間違って解釈されます。
しかし、「救いを失い得る」と教える人たちはみな、「失っても、もう一度救われなおすことができる」と教えています。一度救いを失うとそれっきりで、もう戻れないと教えている人はいません。
けれども、今仮にこの箇所の解釈として(堕落する)=(罪によって救いを失う)が正しいとすれば、この聖句は、その人はもう二度と救いに戻ることはできないと言っていることになります。
この箇所は信仰から堕落した背教者について述べているのではありません。
前述したように、このヘブル人への手紙は1世紀のユダヤ人クリスチャンにあてて書かれたものです。その人たちは、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人たちでした。
当時、その人たちに対する迫害があまりにも激しかったために、信じたユダヤ人の中には、もう一度ユダヤ教に戻りたいと願う者たちがいました。
その人たちに対する警告としてこの箇所は書かれているのです。
ここで言っていることは、「キリストを信じてクリスチャンになり、キリストのすばらしさを味わったのだから。もう後戻りはできない。どんなに迫害が辛くても前進するしかないから頑張りなさい」ということです。
ここで言う「堕落」するとは、ユダヤ教に後戻りすることです。
「そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」とは、救いにあずかった時の、最初の悔い改めに戻ることはできないということです。
ここでは、事実に反する仮定法が使われています。
つまり、もう一度救われなおすということは、実際不可∫能なことなのです。それを可能にするためには、キリストにもう一度十字架にかかってもらわなければなりません。しかしそれは実際に不可能です。
つまり、ここで言っていることは、「キリストにもう一度十字架にかかってもらうことは不可能だから、信仰を捨ててもう一度救われなおすことも不可能である。
したがって、ユダヤ教に後戻りすることはできないので前進するしか仕方がない」ということです。
8節は、「救われた後も罪の生活をしているなら、永遠の滅びに行く」という意味ではありません。
ここで焼かれるのはクリスチャン自身ではなく、そのクリスチャンが実らす、いばらやあざみという実です。
つまりクリスチャンが神から離れた生活をしているなら、その人自身は天国に入りますが、その人の働きは無益なものとして焼かれてしまうということです。これと同じことが、コリント人への手紙第1、3:13,15に書かれています。
次に比較のために、別の解説書を見ましょう。
無知と未成熟がどのような悲劇を生むかが取り上げられる。
(信仰に入った)受信者たちは信仰のよいスタートを切り、奉仕にもいそしんだ。しかしやがて信仰の停滞や後退をきたし、中にはキリストの福音そのものに、反対する者すら現れる始末であった。
教会の中にはそうした背教者たちの将来を心配する声も出てきた。そこで聖書のこの書は、背教者について重大な警告を発している(ヘブル6:4〜6)。
一度福音の光に浴し、福音のすばらしさを経験し、按手によって聖霊の恵みを受け、神のみことばのすばらしさと神の支配の力とを味わったうえで、故意に背き続け、堕落していくなら、悔い改めて立ち返ることは不可能だと言うのである。
というのは、「彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える」(6:6)ことになるからである。
また、天よりの慈雨を豊かに受けながら、「いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまうことが必定であるとヘブル書でははさとしている。
ある聖書学者は、この「一度光を受けて」をバプテスマと関係付けている。また「天からの賜物の味を知り」を、聖餐と、それが示している霊的祝福であると解釈する学者もいる。そうだとすると、バプテスマを受けて一度は信者になりながら、後にキリスト教を捨てる者について書かれていることになる。
この背教とか棄教の問題は、日本のキリスト教会における顕著な特性であると言われている。
パプテスマを受けた信者で後に信仰を捨てる者の比率は、日本では80から90%にも上ると言われている。私たちにとって、この背教の問題は決して他人事では済まされない重大な問題なのである。
このように、不本意の罪によってではなく、故意に背教の道を歩む者は、ついに神に見捨てられてしまう。実に恐ろしいことである。
日本の教会や信者の中には、背教型、妥協型、逃走型、格闘型の四種類があると言われる。
ヘブル人への手紙の著者が終始勧めている信仰のあり方は、背教型でも妥協型でも逃走型でもなく、まさに格闘型なのである。私たちはこの世にあって日々
信仰の戦いを進めていくべきである。
クリスチャンブックと註解書に見られる聖書解釈のこの落差を、皆様はどうお考えになりますか?
(続く)
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