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マイメルマのシステム異常で、送信が午後になりましたことをお詫びします。村川
「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けな
い。」
このイエスの教えは、たしかに、実行不可能です。
「悪い者に手向かってはいけません」という教えを守ろうとすれば、警察官になれませんね。
悪い者=犯人に、手向かって=追跡、逮捕してはいけないからです。
別の箇所でイエスは教えました。
マタイ7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。 7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
この教えを守るならば、クリスチャンは、裁判官にも、検察官にもなれませんね。
繰り返して言いますが。 十戒のひとつ、「殺してはならない(出エジプト記20:13)」は、同じく、出エジプト記21:12 「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」と矛盾します。
このような議論はクリスチャンになって日の浅い人たちが、好んでする議論です。でもあなたならどう思いますか?と聞かれれば、私(村川)は、私なりの理解をもっています。
でもいきなりそのことを書き込む以前に、多くの聖書註解書や聖書学者が言っていることを
聞いていただきたくて、引用・書き込みをさせていただいております。
混乱させるような言い方をしましたが、「殺すな」と「死刑」との関係は次ぎのように理解されています。(私村川もこの考え方に近いのです。)
「 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。(創世記9:6)」
このことばは、人を殺す者は死刑に処せられるという刑罰の意味よりも、人を殺してはならないという禁止の命令である。このように、聖書では原則として、どのようなかたちにせよ、人を殺すことを禁止している。
これは人が神のかたちに造られているという理由からである(創世記9:6後半)。従って人を殺すことは神に対する反逆と考えられている。
しかし聖書には死刑が認められている!それは、
(1)親殺し(出エジプト記21:15)、(2)誘拐罪(同21:16)、(3)両親へののろい(同21:17、レビ記20:9)、(4)呪術者(出エジプト記22:18)、霊媒、口寄せ(レビ記20:6,27)など、(5)獣姦者(出エジプト記22:19,レビ記20:15,16),(6)他神礼拝者(出エジプト記22:20、レビ記20:2)、(7)姦通者(レビ記20:10‐14)。
これらの規定は、荒野での生活の中で語られたもので、そのまま現代には適用できない。
しかしこれらの律法を見ると、その犯罪のどれも、人間社会の最も基本的な規範を犯すものである。
従ってそれは、神の創造の秩序を犯すものであり、神に対する反逆と考えられる。
ところで、あるクリスチャは言います。
私はクリスチャンデすから死刑には絶対反対です。聖書は十戒で、「殺してはいけない」と教えているからです。
私はクリスチャンですから、いかなる戦争にも反対の絶対平和主義者です。イエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)」と教えたからです。
これらは、短絡的な聖書解釈であると、私(村川)は思っています。
戦争について、聖書辞典では、どうまとめているのでしょうか?
抜粋して引用します。
(1)戦争はイスラエル人にとって自分たちの意志で勝手にできるものではなく、神の主導による聖戦であり、戦いは「主の戦い」(サムエル記上17:45-48)であった。
サムエル記上 17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
17:46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
17:47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」
17:48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
(2)戦争はなぜ起きるか、それには種々の理由があるが、根本的には「からだの中で戦う欲望」であり、不信仰である。
ヤコブ4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
4:2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
(3)神はイスラエル人が高慢になると彼らに敵を送り(イザヤ書9:11)、主の前に行った悪に対しては剣をもって報いた(サムエル記下12:10)。
イザヤ書 9:9 この民、エフライムとサマリヤに住む者たちはみな、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。
9:10 「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。」
9:11 そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。
9:12 東からはアラムが、西からはペリシテ人が、イスラエルをほおばって食らう。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
9:13 しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかった。
9:14 そこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。
神に頼らず,他国と軍事同盟を結ぶ不信仰を罰し(エレミア書2:18‐19)、偶像崇拝によって異なる神々に仕えた刑罰として神は敵を用いて戦争を起させる(エレミア記5:6‐9、エゼキエル記7:8‐9)。
(4)聖書は戦争を全面的に肯定しているのではない。
悲惨な戦争が絶え、地上に永久的な平和が実現することが預言者たちの祈りであった(ホセア書2:16‐19)。そしてその永遠の平和をもたらすメシヤが待望されたのである(イザヤ書9:6‐7).
イザヤ書9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
(5) 新約においては直接具体的な戦争についての言及と言えば、再臨の前兆として語られたイエスのことばである(マタイ24:6,マルコ13:7)。
イエスの戦争観について。、聖書は直接語っていない。戦争の事実は認めているが(マタイ
24:6)、新約全体を通して「殺してはならない」(マタイ5:21,19:18,ヤコブ2:11)と教え、弟子の一人に「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)と言われたことを見れば、イエスの戦争に対する姿勢が理解できる。
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