今日もイエス様と共に |
この記事の発行者<<前の記事
|
次の記事>>
|
最新の記事
クリスチャンもいろいろ、自分は自分とお思いの方も少なくありません。
「私にとっての神様とは?イエス様とは?」と、それぞれにクリスチャンとしての受け止め方があります。
神を主観的に捉える人、客観的に認める人、観念的に受け入れる人、などなど。
「教会へ行って賛美歌を歌い、牧師の説教を聞いていると、心が洗われます。」とおしゃる人がいて、また、「このごろ何かと忙しくて、なかなか教会へ行く時間がありません。」と言い訳なさる人がいます。
そのような人々に、ある牧師は厳しくおっしゃいます。「教会に通っているからといって、クリスチャンだとはいえない。」、「祈らないクリスチャンはクリスチャンではない。」、「全身・全霊を持って賛美しないのなら賛美しないほうがいい。」。
そんな励ましを素直に受け入れる代わりに、「この牧師は厳しすぎる」とか「裁いてはいけないと聖書に書かれているのに、この牧師は信徒を裁く」などとして教会を変わる信徒がいます。
そして、冗談を交えながら聖書を誰にも分かるようにやさしく楽しく説教する牧師に人気が集まります。
でもこのような傾向は使徒の時代からあったらしく、聖書には次のような警告があります。
2テモテ 4:3 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、
4:4 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
「自分なりのクリスチャンでいい」とお思いの方に、パウロはこう言っています。
1コリント 2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、"霊"と力の証明によるものでした。
2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
2:6 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
2:7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
クリスチャンは神中心ではなければいけないのですが、実際は、神中心のように見えても、自己中心である場合が多いのではないでしょうか。
ある説教者はこんな譬えを話されました。
あなたがたは ラジオ番組を聞くとき、その電波の波長にあわせますね。でもあなたは神のみ言葉を聞くとき、神のそれがFM 放送であるのに、あなたのラジオはAM放送しか聞けない。
これを聖書のみ言葉で言えば、
2歴代誌 16:9 主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。
もっともっと神から力をいただけるのに、今のままでいいとお考えの方がおられるように思えるときがあります。
祈れば祈るほどに神に近づけるのにと思えるのですが、教会ではもっぱら説教を聞くだけでいいとお思いの方もいらっしゃいます。
しかし、祈って祈って祈りぬくとき、クリスチャンであるとは、こんなにもすばらしいものかの実感を得られることを、私はいつも繰り返しお伝えしています。
この記事の発行者<<前の記事
|
次の記事>>
|
最新の記事
