三島由紀夫研究会メルマガ
発行日時: 2008/2/6
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『三島由紀夫の総合研究』
(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
平成20(2008)年2月6日(水曜日)
通巻第221号
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百瀬博教さんを偲ぶー三島由紀夫を愛した作家
秋山大輔
歴史に「もしも」という仮定をすることは無意味に等しいと言われる。しかしもし石原裕次郎が健在で、打ち解ける機会があれば、このように接していただいたかもしれないと感じる人が作家、百瀬博教さんでした。
新聞では「裕次郎の用心棒」、「PRIDEの仕掛人」という肩書が先に来ていたが、私にとっては最後まで「不良ノートを書かれた作家の百瀬さん」だった。
百瀬さんと交流がある方なら皆、異口同音に「仲が良かった」と語る。豪放磊落そうに見える外観とは異なり、スノードームを愛していた氏らしく、全ての人に対して細やかな神経を持って接していたのだ。
私が百瀬さんに初めてお会いしたのは最近で、2007年10月13日、池尻にあるものつくり学校での鹿島茂氏とのトークショーであった。
そこにはスノードーム美術館が併設されており、百瀬さんの生原稿が飾られている。百瀬さんはスノードームのコレクターとしても有名であった。今思えば、大柄な百瀬さんと小さく繊細なスノードームの取り合わせは面白いと思った。
トークショーの題名は「スノードーム美術館にみるコレクションすること、その今後」という題名であったが、話はそれたり戻ったりで、笑いが絶えなかった。鹿島氏が百瀬さんに旅行の時に買い求めたスノードームのお土産を渡された時に目を細めながら、丁寧に「ありがとうございます」とお礼を述べていた。大きな体を前のめりにして鹿島氏にお礼をする姿は好感を持てたし、怖い人ではないかという私の個人的な百瀬さん感を一掃いさせた。偶然銃の話になると、百瀬さんは「止めて下さい!百瀬が銃を持ってるというと本当に警察が来るんですから!!」と茶目っ気たっぷりに応対していた。(百瀬さんは28歳の時、拳銃不法所持で秋田刑務所に下獄している)それに講演会では百瀬さんの古本収集についても話は及び「ある古本屋で安藤鶴夫さんの本を買い求めました」と述べていたが、終生本を愛していた。講演の最中、何度も言っていたのは「挨拶の大切さ」だった。
「人間、交流する為には挨拶が重要ですよ」と。
講演終了後、私は懐に携えた百瀬さんの著書『不良ノート』にサインしてもらおうと意を決して話しかけた。私の予想では迷惑そうな顔をされると思ったが、「はい」と心よく引き受けて下さった。「よく買って下さいましたね」と丁寧に私に話しかけて下さいました。帽子とサングラス姿の百瀬さんは威圧感がありましたが、丁寧な応対は対照的で私の心に鮮烈に残ったものです。その時に「来てくれた女の子にだけあげる」と話していたボブ・サップを主題にした可愛らしい絵本に「君だけは特別にね」と、ひらがなでサインしてくれました。その後に何人もの人が百瀬さんにサインを求めていましたが、帰る時にお辞儀をすると百瀬さんは「さよなら!」と大きな声で答えて下さいました。
11月には、エドワード・サイデンステッカー先生追悼会でもお会いしました。
百瀬さんは限定100部でサイデンステッカー先生との対談集(百瀬さん曰く特別本)『私の東京』を刊行し、表紙絵を描いている。
「サイデンステッカーは大の猫好きなので、夢二描く「黒船屋の女」風に黒猫を入れた。壷の絵は光源氏。金魚はマチス、サイデンステッカーの顔が二つあるのは、アメリカからやって来た彼が徐々に日本人に同化して行く動きを表している。」(『昭和不良写真館』所収)
私が会場に入ると、百瀬さんは奥にちょこんと座っていた。その後、会場で様々な話をした。私が緊張をほぐす為にビールを飲んでいると「僕ね、ビールが飲めないんですよ」とオレンジジュースを飲んでいました。
秘書の女性の方に料理を持って来させると、「これ美味しいんで食べて下さい」という気の使いよう。
常に周りの人に気を配っていました。
その後、写真好きな百瀬さんは「あの外人の先生は(ドナルド・キーン先生のこと)いますか?」と私に話しかけた。「あ、発起人席にいらっしゃいますよ」と答えるとフットワークよく、デジタルカメラを持ってその方向に大きな体を揺らしながら向かって行った。
その後ろ姿が忘れられない。
会の最後に私が「三島由紀夫の映像(『不道徳教育講座』と川端康成とのノーベル賞対談)と石原裕次郎と慎太郎さんが腕相撲している写真をお持ちです
か?」と話しかけると、
「持っていません」とのご返事。私は後日送る約束をした。頂いた詩集『絹半纏』に私の万年筆でサインをしていただき、後ろのページにファックス番号を書いて「何かあったら、ここに連絡ください」
と仰ってくれた。見送る時に会場前で記念撮影をした。
暫くして写真とDVDを送ると、御礼で愛媛産の蜜柑が箱一杯送られてきたのには仰天した。
またその御礼に昭和54年の三島由紀夫展の図録とサイデンステッカー先生追悼会で一緒に撮影した写真を郵送すると、12月の終り頃に電話が来た。「あ、百瀬です。この前は結構なものを送っていただきありがとうございました。お礼にお餅でも送ろうと思ったんですが・・・。」
私はこの電話が嬉しくて、「いえいえ、そんなとんでもない、いつかお会いしてお話しさせていただければ十分です・・・」と言うと「じゃあ、1月10日以降にお会いしましょうよ」と言って下さいました。
最後に電話で話す事になったのは2008年1月15日でした。私が新年の挨拶をし、昨年の『サライ』で石原裕次郎特集がありますが・・・。とお話ししたら「持ってません」とのご返事。私が「すぐに送りますね」というと百瀬さんは「お金を使わせて申し訳ない、2〜3日前に日にちを決めてお会いしましょうよ」と仰って下さいました。
まだ会って間もない私にまでここまで心を砕いて下さいました。再会は果たす事が出来なくなりましたが、百瀬さんの作品は私の心に生きています。
百瀬さんが愛した作家は三島由紀夫でした。
『昭和不良写真館』には2ページ割いて、自身の三島由紀夫初版本コレクションと三島由紀夫研究会の原田京子さんから貰ったレリーフも掲載されている。
百瀬さんがどれほど三島由紀夫を好きだったのか、氏のエッセイから紐解いてみる。
「三島由紀夫の評論精神は、小林秀雄に伯仲するものだ。三島由紀夫の表論文の巧さが、そのように具眼の士から喧伝されたのは、昭和二十四、五年頃からである。
三島由紀夫は大正十四年生れだから、当時弱冠二十四歳である。
小さい時にうんと時を稼いでいる人は、歳には似合わないことを知っていると言われるが、二十四歳の三島由紀夫が、当時から日本の知性と呼ばれていた四十七歳の小林秀雄に比肩すると目された事は、驚愕に値する。
三島由紀夫が評論のみしか書かなかったとしたら、ノーベル賞候補にノミネートされることはなかっただろうが、おそらく今頃は、日本文壇の神様だっただろう。
小説を書いた為に、世俗的な待遇を受けねばならなかったのである。
三島由紀夫は、夥しい知力と意志力と学識を兼ね備えた巨人だった。森鴎外、夏目漱石の作品をまとめて読んでみると、文学の正統性は道徳至上主義にあることが良く解る。が、今は啓蒙的な文学は全然歓迎されない。道徳性、説教くさいこと、それ自体もう芸術的でなくなって久しいのである。
三島由紀夫は、自らの幸福のために生きているという、ふやけた人生観が横溢する鼓腹撃壌を否定する心情の最たる者であった。それは、去る昭和四十五年十一月二十五日の自刃によっても、天日のように曜として疑いようはない。
戦後、民主主義の生んだ正義を語って造りあげようとしている文化が、いまだ一人の鴎外、一人の漱石を生みえる品格を得ていない事実を、人一倍感じていた三島は日に日に弛緩していく日本の精神の姿に対し、一種刑而上的な責任、自責の念を感じ、あの奇矯なまでのストイシズムを自らに律したのである。」(「女神」『不良ノート』所収)
百瀬さんは三島と会う事を切望していたが叶わず、しかし、作品や人間模様からここまで心情を読み取っていた事は驚きに値する。三島が政治参加しなかった事を百瀬さんはこう答えている。
「他人の心にデリケートに応えたい心情の者は、決して政治的な行動をとることが出来ないのだ」
百瀬さんの「あにき」である裕次郎は勝新太郎とともに五社英雄監督の『人斬り』で三島と共演していた皮肉・・・。
人生は時として惨い悪戯をするものだ・・・。その時百瀬さんは下獄していたのだ・・・。
私は百瀬さんの裕次郎、慎太郎や時代背景を存分に入れ込んだ三島由紀夫論が読みたかった。
それが出来た人だと前の一文を読んで感じる。公開講座で話して欲しかった。もうそれら全てが叶わない事。本当に残念でならない。
百瀬さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
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川端康成とめぐる謎
西 法太郎
小谷野某の『日本の有名一族』を手に取りました。明治以降名を成した政官財芸術文化古典芸能界人士の家系図に解説を付したカタログ冊子です。腑に落ちないのは軍人武官の一族が一切無視されていることです。
そして三島由紀夫氏を輩出した平岡一族も載せられていません。著者の趣味で取捨選択されたのでしょう。
採られた中で目を引かれたのは川端康成氏の一族です。
このノーベル賞受賞者夫人の生年は最近やっと明らかになりましたが、一族の何人もの生結嗣離別死がそれを知る係累によって語られず、不明なことが多々あるのです。
じつに面妖な側面があります。
ノーベル賞をめぐって晩年の三島氏と川端氏との間に秘められたエピソードがありました。これは最近衆目に曝され、驚きをもって受けとめられています。
今まで編集者や出版社の一部関係者にしか知られていなかった川端氏の若い女性への執着ぶりや偏狭な振る舞いもしだいに明らかにされています。
川端氏は三島氏に推薦状をしつこく求め、それに三島氏は表面上、嫌な顔を少しも見せず応じましたし、一貫、師として立て敬い続け、不眠症や胆石で苦しむ川端氏を委細に労る配慮までしました。
しかし川端氏は三島氏からの楯の会パレード(自決の一年前)への臨席を求める懇請を拒絶しました。これには三島氏は盾の会会員の前で激怒を顕にしました。
川端氏は三島氏からの最後の手紙(自決の四ヵ月前)を償却してしまいました。
三島氏の自決後、数年して川端氏が自殺しましたが、その数日前に三島氏の遺族は川端氏から「長い長い」手紙を受け取りました。しかしその内容は公にできない「川端さんのまったく意外な点」があって秘匿されたままです。
川端氏の闇と川端一族を廻る謎は深いようです。
(生結嗣離別死は、誕生、結婚、養子縁組、離婚、生き別れ、死亡の意です)。
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(編集部から)小誌は「三島由紀夫研究会」(昭和四十六年創設)の会員に限定せず、三島研究の論文、エッセイを常時募集しております。
比較文学論(たとえば「吉本隆明と三島」とか)、作品論(たとえば『仮面の告白』に新解釈)、読後感、政治論、芸術論。まるで分野を問いません。三島先生自身が古典から前衛まで、映画からシャンソンまで万能の作家でしたから。
「憂国忌」や「公開講座」への希望講師、御感想も歓迎です。
皆さんからの御投稿を広くお待ちします。原則として実名。簡単な肩書きをつけて下さい。稿料はありません。三島文学批判も構いませんが、誹謗中傷のたぐいの投稿は採用しません。ゲスト寄稿者コーナーも常設しております。
一部の原稿は年二回発行のメルマガ合本に掲載することがあります。
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三島由紀夫研究会 HP URL http://mishima.xii.jp/
メール yukokuki@hotmail.com
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