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三島由紀夫研究会メルマガ

発行日時: 2007/12/2


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  『三島由紀夫の総合研究』 
     (三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
       平成19(2007)年12月3日(月曜日)  
           通巻第206号  大増ページ
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二回連載(その2)

第一部シンポジウム(第37回憂国忌の概略記録シリーズ)
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「あれは楯の会事件、森田必勝主導ではなかったのか」
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       パネリスト 堤  堯 (元『文藝春秋』編集長)
             中村彰彦 (直木賞作家)
宮崎正弘 (評論家)
       司 会   花田紀凱 (『WILL』編集長)
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(承前)


 ▼ 北方領土運動での知られざる森田必勝、決死の行動

<花田紀凱> ここで避けて通れないのは、森田が中心となり、北方領土奪還の国民運動の魁になろうとして貝殻島上陸計画を立てますね? 昭和四十三年八月の事件です。

<中村彰彦> 森田必勝は日学同運動のなかで全国学生国防会議議長として活発に活動していた昭和43年夏、仲間と逗子海岸へメンバーと海水浴に出かけた。そのときに遠泳をしながら、或いは北方領土問題でも国民を覚醒させるべく運動しようということになった。 
逗子の沖合の小島まで往復して、ノサップから貝殻島までは、あのくらいだろうと語り合い、「ならば、行くか」となったようです。 
貝殻島はソ連が占領している日本領で、そこに日本国旗を立てるか、拿捕されるか、機関銃で射撃されるか、とにかく世を騒がせて、世論を喚起しようということになったのですね。
その年の8月に宮崎さんたちも森田と一緒に根室の納沙布岬へキャラバン隊を組んで出掛け、現場では決行組みとそれを受けて国民運動を展開する組とが、水盃で別れたが、水温が冷たすぎて泳ぐどころではなかった。 
それさえも知らずに決行しようとした無謀さはあります。
森田ともう一人の二人で決行しようとしたが、漁船が重く海に押し出せない。そのうち森田の方からやめようと言いだした。
根室の宿に戻ってきた森田の顔はほっとしていた。一緒に決行しようとした相方は、アンビバレントな気持を森田に抱いたといいます。これが森田を次の行動に進ませることになったと解釈できる。

<花田> そうなんですか、宮崎さん。現場で見ていて?

<宮崎正弘> 失敗の評価を、突き詰められても困るが、当時は毎度そんなことをやっていた。ですから私は「また、やればいい」と若干冷めた目で見ていた。
 勝頼が長篠で撤退したように、森田はあの白い歯を見せていた。そのことは事件直後の昭和46年二月号の『諸君!』(「森田必勝との四年間」)に書きました(編集部注、宮崎正弘著『三島由紀夫“以後”』(並木書房参照)。

 あの北海道への遠征では、新聞紙を敷いて駅舎に宿り、二泊三日でへとへとに疲れて帰ってきた。深い反省なんかしていられなかった。

<中村> 森田と貝殻島へ渡ろうとしたもう一人が遠藤秀明さんで、彼はその後ネオナチの研究にドイツへ行った。
 森田が貝殻島へ渡るのをやめようと言って、釈然としない気分だった、と遠藤氏は回想したものの、要するに海水が冷たくて愕然としたのは調査不足だった。

<宮崎> ただ地元の漁民に怪しまれて夜中にもマークされていたから、貝殻島へ渡る漁船を盗むなんて出来やしませんでした。


▼車座になって酒をのみ、三島を論じた

<花田>森田必勝氏は坂本竜馬、土方歳三になりたいと日記に残していますね。その両者になれないとの忸怩とした気持から、自己証明に駆られたと思う。

<堤堯> 貝殻島への上陸に失敗した翌年の昭和44年4月、僕は森田がアルバイトをしていた四谷の創魂出版に会いに出掛けた。
 日当1400円でライトバンへの本の積み下ろしをしていた。そこで森田とはストーブを囲んで、スルメを齧り、日本酒を呑みながら3時間ばかり学生運動について、政治運動について、三島論について話した。 
 ノサップの潮は早く、水は冷たかったと言っていた。寡黙だったな。
 僕はそのとき森田さんに「(ナチの突撃隊長でヒトラーに裏切られ粛清された)エルンスト・レームになるかも知れないね?」と訊いたら、森田は「絶対に三島先生を逃しません」と切り返してきた。
 三島さんは取材対象にのめり込んで行く人で、「禁色」を書いていたときは、ゲイバーに出入りしていたし、 取材でジャズ喫茶に通ったり、フーテンを自宅に呼んだりもした。

<中村> 森田はカルメン・マキの「時には母のない子のように」が愛唱歌だった。

<宮崎> 私は軍歌を唄う森田しか知らない。二次会、三次会ではそういう歌を唄っていたのかもしれませんが。 

<中村>「今日でお別れ」も持ち歌だった。

<堤> 森田さんの河野一郎の追っかけ。 その次の対象が三島だった。 自分は何ものか?  アイデンティを探っていた。

<花田> そのあたり、実際に毎日のように彼と会っていた宮崎さんとしては、どういう実感がありますか?

<宮崎> 後智慧でなら、どうにでも言えるけど、率直に言って、当時千人から千五百名の仲間がいたから、一人一人に関して深く構ってはいられなかった。
 私は朝日新聞の配達をやっていた、というと意外と思うだろうが、左から右に回るのは当時の思想状況を思い出して頂ければ普遍的なことです(笑)。
で、森田は毎日新聞の輸送をやっていたので、同じ新聞仲間ということで特別に親しかったのは事実です。
 森田さんは記念写真を撮るときに、スーッと真ん中に来てニッコリするのが得意技だった。理論的なことは嫌いではないが、人前では控えるタイプだった。
 とはいえ森田さんは北方領土運動からかえって、貳週間後におきたソ連のチェコ侵入事件。四日市から電話をかけてきて、「何か行動を起こそう」という。その三日後にソ連大使館に押し掛けて座り込みをしたた時のリーダー格で、チェコも大事だが、23年前から日本領は奪われているとソ連に抗議し、大使館の担当官に抗議文を手渡したのも彼でした。
 ですから貝殻島の一件の後、森田さんは「民族運動の起爆剤を志向」という論文を 『日本及日本人』に書きます。
それが読売新聞の論壇時評で好意的に採り上げられたことがあります。論客だった側面もお忘れなく。

<花田> その半年ほど後から森田さんは「楯の会」の専従になる。

<堤> 酒を酌み交わした後、森田さんの「三島先生を逃さない」との発言を三島さんに伝え、「大丈夫?」と訊いたら、 三島さんは胸を突かれたような表情を見せた。そのときに三島さんから、「君みたいな男に楯の会に入ってほしい」と誘われたのです。 
「家族はいるか」と訊くから、「女房と子どもがいる」と答えると、「女房、子どもを口実にするようじゃダメだ」と一方的に言われた(笑い)。 

<宮崎> その半年前に話を戻しますが、楯の会への勧誘はわたし達も受けた。当時、学生運動は、ガリ版切り、立て看作り、ビラ刷り、ビラ配りと忙しい。 そんな我々に三島さんから一ヶ月学生を貸せと言われても、追加でせいぜい5人が限度だった。 
 最初の頃の「楯の会」(当時、この名前はなかった。三島小隊と呼んでいた)の人選は論争ジャーナルが中心になってやっていた。 二期目以降は徐々に会員の構成が変化して行った。

<堤> 事件後、楯の会の何人かを取材したことがあります。中央公論に入った故平林孝氏(その後、『中央公論』編集長)もメンバーだったようだが、楯の会に入隊後、「バカバカしいから辞めたい」と言うと、三島さんは「そうだろうな」と言った。


 ▼「楯の会」専従までの空白期間

<花田> 森田氏は、その後、楯の会の学生長となるまでの期間はどうしていたのですか?
そのあたり、中村さん。『烈士と呼ばれる男』のなかで詳細に書かれましたが?

<中村> 森田や野田隆史さんら5人は同時に日学同から脱退して、新宿区十二社(じゅうにそう)の小林荘に集結して「祖国防衛隊」を結成した。月一回の「楯の会」の例会には制服を着て出掛けた。 
テロで人を殺めたら自裁すべき、と主張して切腹の練習もしていた。ところが、実際の決行に、十二社グループからは誘わずに森田は古賀、小賀、小川の三人を選んだ。 
 だから事件後、森田グループにありながら、残された者たちの空白感はたいへんで、事件のことを訊くと、皆悔しさ、口惜しさで泣き、無念そうに語ってくれました。
これがのちに経団連事件に繋がった。

<花田> 逡巡した三島さんを森田さんが引っ張ったというのは?

<中村> 昭和44年日学同を脱退し、十二社に集結した森田たち5人は「血を以て贖う」というように、急進的になっていった。

<花田> 三島さんを折伏していった経緯があったのか?

<中村> ここまで来て「三島先生がやらないのなら俺が(三島を)やる」という森田の気持は十二社グループの中では公知だった。

<堤> 三島さんは森田さんを「僕を殺すただひとりの男」とある人に紹介した。 芝居の稽古中の三島の発言とジョン・ネイスンが書いている。
 しかし三島さんは絶対人を殺せないんだ。 平たく言うと、攻撃的になれない人だ。議論していて突っ込むと、さっと退き下がる人。 
 子どもを可愛がる人でもあった。娘の紀子さんが学習院の同級生の浩宮殿下と一緒に写っている写真に、雑誌社が “三島の娘” と入れたキャプションに文句をつけたことがある。すると三島さんは娘の誘拐を心配していたくらいですよ。
 そして自分の死後十年間、子どもたちの誕生祝に花を手配してもいた。
三島は学習院の同級生との回顧談で、戦争を女房こどもを放っぽらかしてやったが、そんなことは本来やっちゃいけないと言っている。
昭和45年の夏、森田さんから四谷のスナックで、「佐藤首相を刺す」というのを聞いた。そんな森田さんに三島さんが引っ張られた側面は否めない。


<宮崎> 思想的に当時の動きを追うと、左翼の横暴と暴力への反作用として、以前からあった良識派がようやく立った。
思想状況でいえば、林房雄という大きな存在があり、体制改革の高坂正尭さん、伝統保守の平泉澄さんの系列、石原慎太郎氏が立ち上げた、「日本の新しい世代の会」などと、一旦は、反左翼の人達が結集したけれど、場面、場面で論争にあり、場合によって分裂し、学生の取り合いをしていた。 楯の会、石原の集団、平泉の伝統保守思想の集まり、といった風に。



 ▼ 最後の四部作は第三巻以後、痩せている

<堤> 昭和45年5月三好行雄氏との対談で、三島さんは「楯の会で死ぬことになるかも知れない」と発言しています。
遺書を書いたのは6月30日、その翌日、防衛研修所で講演し、「柄にも無いことに首を突っ込んでトンデモナイことになる」と言った。
中断した『豊饒の海』の連載を昭和45年の5月から8月にかけてシャカリキになって書いた。その結末を夏、下田のホテルに呼んだドナル土・キーン氏に見せる。昭和46年末くらいに完成を予定していたが、状況が変わったんだ。

<中村> 三島のダンディズムで、結末はあらかじめ書かれていたが『天人五衰』は、文学的に痩せている。
辛かったでしょうね。作家から言えば、あれは短編の終わり方だ。

<堤> 僕は『天人五衰』の結末に感銘した。
「鏡子の家」は評判が悪くてね、と三島はこぼしていた。 田中西二郎さんだけが褒めていた。
「春の雪」は好評、「奔馬」は遠巻き、「暁の寺」は文壇が無視した。

<宮崎> そうですね。最後の「天人五衰」には、前三巻に出てくる女中かしらの蓼科とか、渋澤龍彦をモデルにした副主人公らが出てこない。
 ところで英訳ですが、手間取って一巻・二巻はギャラガー氏が英訳し、三巻は阿頼耶識など仏教哲学の極致のような思想書になっているからチンプンカンプンで、ようやくキーン氏が引き受け、四巻は先頃亡くなったサイデンステッカーさんが訳した。

<堤> 渋澤邸に集まったときに、三島が皿を使って一心にアーラヤシキの説明をしていたら、渋澤が「それじゃ、番町皿屋敷だ」と茶化して、皆が大笑いした。
 事件決行の二週間前、新宿で御茶ノ水方面行きの中央線に乗り換えたら、目を閉じ、股を広げ、腕を組み、鼻の穴を膨らませ、溜息をついている森田さんがいた。
 周りの者は怖くて近づけない。 60年アンポのときに、あの事件直前に御茶ノ水から本郷行きのバスで見掛けた樺美智子を思い出したよ。
そしたら無性に三島さんに会いたくなったんです。

会う口実をつくろうと三島と大学・学部・年が同じ編集長と相談して、二ページの時評プランでアポ取りの電話をした。
 「会いたい」と三島さんに言うと、「話は何だい、11月いっぱい予定が詰まっている。来年の予定は入れないことにしている。12月に入ったら電話してくれ」と言う。
当時売れっ子だった評論家の坂本二郎との対談でお願いしたいと言うと、僕は公害だからねと応諾し、12月7日のアポ取りに成功した。それは何かを嗅ぎ付けたと思った堤へのアリバイ作りだったのだ。


 ▼三島事件は日本の歴史に残る壮挙でもある

<花田> 最後に三島事件の今日的な意義を、お願いします。

<中村> 戦後生まれは、命を大事にだが、生命以上の価値があると知ったのはショックだった。複数の人間がある事を行い、代償として腹を切る場合、順序がある。一人目は露払い役だ。イニシアティブは森田さんにあったと考えられる。

<堤> 森田はロケットのブースター役だった。
 森田がいなければ起こらなかったのが三島事件。三島が生きていれば82歳。
三島に理想の人生を訊くと、ゲーテと答えた。
宰相と文人。もしいまも三島さんが生きていたら政治的オピニオンを振り撒いていただろう。岸信介が掲げ、三島・森田の二人が提示したのは「改憲」だが、岸の孫の安倍晋三が「改憲」を政策のトップに掲げた。
その登場と挫折を見たら何と言っただろう。

<宮崎> ヤマトタケル、大津皇子、楠木正成、大塩平八郎、西郷隆盛、特攻隊に連なる。自分を犠牲にしても行動で示したのが、日本の歴史のパースペクティブから総括する三島事件だったと思います。

<花田> いやぁ。意外なお話ばかりでした。時間になりました。本日はどうも有り難うございました。
                            (西法太郎 記)
          ◎◎ ◎◎ ◎◎

(編集部注 当日の記念冊子に掲げられた森田必勝略年譜は下記の通りです)

 森田必勝氏に関するノート
 三島由紀夫「楯の会事件」の一方の主役は、楯の会学生長として切腹した森田必勝烈士。

 略年譜 
昭和二十年七月二十五日、四日市市で森田和吉次男として誕生。二歳のとき、父母が続けて病死。兄・森田治や姉たちに育てられる。四日市河原田小学校、昭和三十六年、海星高校。二年生から三年生まで生徒会長。成績優秀。政治家になる覚悟をかため河野一郎の門を叩く。サイクリングで全国を旅行。
 昭和四十一年、二浪ののち早稲田大学教育学部に合格。クラス委員。ストライキ反対運動に参加。日本学生同盟結成に参画。翌四十二年四月、早稲田大学「国防部」結成に参加し、民族派の学生運動へ。同年十一月、初の政治論文「核政策をめぐって」を『日本学生新聞』に発表。
昭和四十三年。スキーで骨折、療養先から三島由紀夫の楯の会の前身組織の体験入隊へ一ヶ月参加。同年六月十五日「全日本学生国防会議」を結成、議長に就任。三島由紀夫が応援演説に。八月、根室で北方領土返還運動を展開、漁船で歯舞諸島への上陸を試みるが、失敗。同年十一月『日本及日本人』に領土問題の論文を発表、「読売新聞」論壇時評で激賛された。
 昭和四十四年二月、日学同を脱退し、祖国防衛隊を結成(隊長)。八月、四回目の楯の会体験入隊。学生長に就任し、同年十一月三日の「楯の会」パレード(国立劇場屋上)を指揮。
 昭和四十五年二月、「楯の会」第五回入隊を引率。十一月二十五日、三島由紀夫とともに自衛隊市ヶ谷台東部方面総監室にて自決。

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(編集部から)小誌は「三島由紀夫研究会」(昭和四十六年創設)の会員に限定せず、三島研究の論文、エッセイを常時募集しております。
 比較文学論(たとえば「吉本隆明と三島」とか)、作品論(たとえば『仮面の告白』に新解釈)、読後感、政治論、芸術論。まるで分野を問いません。三島先生自身が古典から前衛まで、映画からシャンソンまで万能の作家でしたから。
 「憂国忌」や「公開講座」への希望講師、御感想も歓迎です。
 皆さんからの御投稿を広くお待ちします。原則として実名。簡単な肩書きをつけて下さい。ただし三島文学批判も構いませんが誹謗中傷のたぐいの投稿は採用しません。ゲスト寄稿者コーナーも常設しております。
 一部の原稿は年二回発行のメルマガ合本に掲載することがあります。
       ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
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三島由紀夫研究会 HP URL http://mishima.xii.jp/
      メール  yukokuki@hotmail.com
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(C)三島由紀夫研究会 2006―2007  ◎転送自由
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sitsukoine日時:2007年12月2日


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