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三島由紀夫研究会メルマガ

発行日時: 2007/11/27



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  『三島由紀夫の総合研究』 
     (三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
       平成19(2007)年11月28日(水曜日) 
             通巻第199号  200号突破記念直前増刊号 
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憂国忌における井尻千男先生の講演概略

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三島死後、江藤淳と司馬遼太郎の対比から思想状況を語る
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憂国忌、第二部に井尻千男氏が「武士道の悲しみ 最後の特攻隊としての三島由紀夫」という演目でご講演頂いたが、会場も満員で、本年行われた三島由紀夫関連の講演でも最高峰に位置する内容であった。
 井尻氏が掲げた三島由紀夫の言葉は昭和45年の産經新聞に掲載された「果たしえていない約束 私の中の25年」の一節を当時日経新聞の記者であった氏は何度も読み返していたと述べている。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

 三島の倒壊的心理を描写していたのであるが、将来の日本の状態を見事に的確に言い表した言葉である。三島氏は誰と果たし得ぬ約束をしていたのだろうか?
井尻氏は一つの推測をする。三島自身は明確な答えを出してはいないが、「英霊」との黙約ではないかと考えている。それと三島が少年時代に影響を受けた憂国の士である二・二六事件の特高も含まれているのではないかと考えている。

 井尻氏は三島事件以後1970年代に大勢の知識人が三島的思想からの大逃走劇があったと語る。
そして振り返ると、文壇では江藤淳や司馬遼太郎の存在が大きくなるのだ。江藤は三島が最大の意欲作として臨んだ『鏡子の家』を膨大な枚数の評論でコテンパンに非難する。
三島としては戦後日本が迎えた、空虚、ニヒリズムを的確に描写したのだが、江藤は「リアルティ」がないとして痛烈に書き上げる。しかしそれに対して非難をせず、静観していたのは三島なりの美学と言えるだろう。
 現代日本が、欧米列強に感化され、GHQの教育により、日本の原点回帰は遅れ、多くの知識人は三島事件当時に、その行動に対して距離を置く事で中間の位置を保っていたが、現代になり三島由紀夫の発言や、行動がリアリティを持って人々に理解されようとしているのは紛れのない事実である。
 結局、江藤淳も最終的には「西郷南州」の評伝を書く事で精神的に三島由紀夫と和解する事になる。

 井尻氏の講演は日本人の源泉と言える万世一系の天皇制や、日本文化を堅持する事の大切さと、三島由紀夫の精神は決して色褪せるのではなく、今後も議論され、継承される事の大切さを訴えているのだ。
 江藤や司馬をありがたがるのではなく、改めて三島由紀夫の声に耳を傾け、原点回帰を思考する。
 文学のみならず、沖縄の教科書検定など米軍の支配から逃れる事も出来ず、袋小路に陥っている憲法を打破し、日本民族として原点に立ち返った議論が必要であると私たちに井尻氏は伝えようとしているように感じられた。
                  _(秋山大輔 記)
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     「大分憂国忌」にて
              平成19年11月26日
               衆議院議員   西 村 眞 悟


 昨日の十一月二十五日は、「憂国忌」である。
即ち、三十七年前の十一月二十五日、三島由紀夫と森田必勝は、市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に討ち入り割腹自殺を遂げた。
 私はその時、学生であった。京都市左京区の大文字山の麓、浄土寺馬場町の学生寮に住んでいた。朝と晩の食餌付きで月四千五百円の寮であった。
何の用があったのか忘れた。多分いつものように目的もなくぶらりと銀閣寺か大学の方にいっていたのであろう。その帰り、垣根の横を通って、寮の門に近づくと、中から仲間の寮生が飛び出してきた。
門の前でぶつかりそうになった僕に、「三島さんが自衛隊に討ち入って今立て籠もっている」と言った。
 その一瞬の彼の顔に、晩秋の光が当たり木々の葉や梢の影が刻まれていた。その彼の顔に射す光の形は今も甦ってくる。そして、その顔の光と影を見ながら、僕は、「三島さんは死ぬんだ」と思った。
 翌朝の毎日新聞朝刊に、作家の司馬遼太郎氏の「三島事件」に関する論説が掲載された。
 司馬遼太郎氏は、先ず、吉田松陰を語ってから、彼のようなタイプは民族の歴史の中でただ独り出ればいいのだと切り出し、何故なら二人も出してしまうと、民族の精神病理の問題になると述べたのである。
 そして、「かの名作、まことに名作」という表現で、三島の作品である「午後の曳航」を紹介して三島の自決への軌跡を辿り、最後に、それにしても、この我が民族の歴史の中で二度と現れないかもしれない作家を、精神と肉体のアクロバットの果てに失った悲しみを如何にすればいいのか、と締めくくった
(以上,原文を探さず記憶にもとづく)。

 この論評を読んで僕は、衝撃的な三島の自決の報の直後に、というよりは、三島の首のない胴体と生首が総監部から運び出される映像を眺めながら、これだけの深く静かな論評を書き上げた司馬遼太郎氏の力量に舌を巻いた。そして、この記事は私にとって司馬遼太郎氏の一番印象深い一文になった。

 昨日は三島由紀夫と森田必勝の自決から三十七年が経った日であった。
私は大分県護国神社で行われた「大分憂国忌」に出席して記念講演をする機会を与えられた。
 実に立派な大分護国神社境内の憂国忌会場に入ると神殿の横には、三島と森田の両烈士の垂れ幕の横に、神風特別攻撃隊各烈士の慰霊の幕が掲げられていた。
 その幕を見たとき、私は三十七年前の両烈士そして六十二年前の神風特別攻撃隊各烈士とともに、日露戦争時、百三年前の明日二十六日の、旅順要塞攻防戦における三千の白襷隊の各烈士のことをどうしても語りたくなった。
 思えば、大分は海側からの旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫海軍中佐の故郷である。広瀬中佐の霊が旅順を語れと促したのかも知れない。
 
 明治三十七年十一月二十六日、旅順に対する第三回総攻撃が開始された。
この時、乃木希典軍司令官指揮する第三軍のみならず,日本が生死の分かれ目に立っていた。旅順が陥落しなければ日本軍は、陸に海に総崩れになって崩壊し、我が国家はロシア軍に席巻され滅亡したであろう。
 しかし旅順総攻撃に入った各師団は大損害を受けて撃退され攻撃成功の見込みはつかなかった。
 そこで、各師団の攻撃がことごとく失敗に終わったのを見とどけた乃木軍司令官は、二十六日夕刻、特別部隊による壮絶な攻撃を決意する。それは、中村覚歩兵第二旅団長の意見具申によるもので、中村少将が指揮して夜間に刀と銃剣で敵陣保塁に攻め込む奇襲である。夜間の目印のため全員が白い襷をかけた。

 乃木軍司令官は、三千の白襷隊にたいし、
「国家の安危は我が攻囲軍の正否によって決せられんとす」との悲壮なる訓辞を述べ、整列する将兵の間を歩き、ただ「死んでくれ、死んでくれ」と言った。
 そして午後六時に行動を開始した白襷隊は、二十六日午後九時、敵陣に突入した。しかし、中村隊長が重傷を負って倒れ、ほとんどが死傷して隊として消滅したのである。

 大砲と機関砲で武装しコンクリートで固められた強固な永久保塁に対する三千名の刀と銃剣での夜襲である。後世、この白襷隊の攻撃をもって、まるで彼らが乃木に犬死にさせられたように語られる。司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」では、白襷隊が乃木の「無能」による兵の殺戮の例として挙げられている。
 しかし、私は、会場の特別攻撃隊各烈士の幕を見たとき、白襷隊の各烈士のことを語り、次のロシア軍側の文献を紹介したのである。
それは岡田幹彦著「乃木希典、高貴なる明治」(展転社)にある忘れがたいロシア側記録である。
「我等旅順籠城の守兵は、一兵一卒に至まで・・・血につぐに骨をもってし、骨につぐに直ちに魂をもって死守したるなり。しかも日本軍の堅忍なるや分を得れば寸、寸を取れば尺と・・・営々倦まざること即ちこれ日本軍の精気なりといわん。
 実にこの精気に強き分子たる日本軍が精気に弱き露軍を屈服せしめたるなり。
 余は敢えて屈服という。されど一九〇五年の一月一日の開城を指すに非ざるなり。その前年の暮れ、即ち十一月二十六日における白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、まことに余輩をして精神的屈服を遂げしめる原因なれ。
 この日の戦闘の猛烈惨絶なりしことは・・・その適切なる修飾語を発見することを得ず。・・・しかもその天地の振動に乗じ、数千の白襷隊は潮の如く驀進して要塞内に侵入せり。
 総員こぞって密集隊・・・白襷を血染めにして抜刀の形姿、余らは顔色を変ぜざるを得ざりき。余らはこの瞬間、一種言うべからざる感に打たれぬ。曰く、屈服。」
 
 よく文献を集めたといわれる司馬遼太郎氏は、この記録を知らず、もしくは無視したようであるが、敵軍であるこのロシア側記録こそ、後世特に戦後になって、「坂の上の雲」などで「愚行」とされた中で戦死していった白襷隊将兵の霊に捧げるべき言葉では無かろうか。
「白襷隊三千の烈士よ、貴官らの勇敢な死は、旅順陥落をもたらし、祖国をして勝利せしめたり」と、
 そして「あなた方の尊い自己犠牲の上に、今に生きる我等は亡国の民ではなく、日本に生まれた喜びを心に持つことができるのです。ありがとうございます」と。

 国家の再興は、教育の再興にかかっているが、歴史の回復なくして教育の再興はない。そして、歴史の回復とは、勇戦奮闘した英霊に感謝の誠を捧げることからはじまる。
 全国、津々浦々の墓地には、ほぼ例外なく墓石の先が尖った兵隊さんの墓がある。私は、それらを見るとき、日本が近代に経験したものは「大祖国戦争」であったと思う。そして、時に
「ごくろうさんでございました。ありがとうございました」とつぶやき、何処何処で戦死、戦病死と刻んだ字をながめる。これが私にとって、我が国の歴史を実感することにつながってくる。
 読者諸兄姉も、散歩の途中、通勤の途中、村や町の墓地に行き会うことがあると思う。
 その墓地の中に、兵隊さんの墓石があるはずだ。それを眺めて、欧米列強が繰り広げる弱肉強食の帝国主義の時代に、独立して近代化を成し遂げた我が国の祖父母の時代の苦難の歩みを少しでも実感しようではないか。
 自国の歴史は、他人のことのように観るべきではない。自国の歴史は、津々浦々の墓地からも実感することができる。 

(西村真悟氏のメルマガより転載しました)
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(編集部より)東京池袋での「憂国忌」(三島研究会が主催)のほかに、墓前祭が楯の会関係によって多摩霊園で行われたそうです。福岡では「福岡憂国忌」、荒木和博氏が講演しました。渋谷では「慰霊祭」が行われ、遠藤浩一氏が講演。大分でも「三島義挙記念講演会」が開かれ衆議院議員の西村真悟氏が講演されました(上記)。さらに大阪と愛媛などで三島追悼会が催され、森田烈士の故郷四日市でも慰霊祭が執り行われたという情報があります。
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(新聞切り抜き帳)
(1)日本経済新聞 11月24日付け夕刊。
  彦根は三島由紀夫『絹と明察』の舞台。
  日本的経営を信ずる主人公が子どものように可愛がってきた従業員から裏切られストライキを打たれる。参謀役の岡野はニヒリスト。
 絹(日本の情緒、共同体としての経営風景)と明察(西欧的合理主義)との葛藤を哲学的に描いた傑作『絹と明察』の舞台巡りは、先般の朝日新聞の記事(ストライキ側からの回想)と、すこし趣きを異にした、彦根城下町探訪記となっている。

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(2)産経新聞 11月27日付け(東京版朝刊)
 「三島由紀夫 幻の書公開へ」
 諫死事件直前に東武デパートの「三島由紀夫展」のために、三島は二本の書を揮毫していたが、そのうちの未公開の一枚が公開される。
 縦178センチ、横114センチに「豊饒の海へ注ぐ」
 と雄こんな文字で大書されている。
 11月5日からの『朱雀家の滅亡』に合わせて、劇場(東池袋「あうるすぽっと」)ロビィで17日まで。

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(3)読売新聞 11月27日付け(朝刊)
 「最後の小説『豊饒の海』 「松枝」三島、十代のメモ、高校の教科書の間に」と六段、写真入りの大きな記事が読売にもでた。
 やはり東池袋「あうるすぽっと」で朱雀家の滅亡の公演に合わせてロビィで展示される手製の冊子(三島初めての書とされる)。
 (1)の揮毫と同様な“新発見”とされるが、これは三島が高校時代の教科書「東洋史概説」の間に挟まれたメモで「松がえざしにさしつれば、はるのゆきこそふりかかれ」と書かれていた。
 歌詞の原典は後白河上皇の『梁塵秘抄』口伝集にある、「梅が枝挿頭に挿しつれば、春の雪こそ降りかかれ」で、「梅」を「松」に表記した。
 第一巻『春の雪』の主人公は松枝清顕。

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(読者より その1) 保田與重郎が三島事件の夜に読んだという次の歌に涙が止まりません。
景仰歌三首

 国のため、いのち幸くと願ひたる、畏きひとや 国の為に、死にたまひたり

 わがこころなほもすべなしをさな貌まなかひに顕つをいかにかもせむ

 夜半すぎて雨はひさめにふりしきりみ祖の神のすさび泣くがに
                 (昭和四十五年十一月某日)。

憂国忌における井尻千男先生の講演(37回憂国忌二部)でも、沢山の涙を流してきました。今年の憂国忌は親子ずれが多かったと聞き及んでなんだか嬉しくなりました。井尻先生の講演内容は、いつ拝聴しても心に響きます
まだまだ日本は捨てたものではないとの思いを抱かせてくださる乃木将軍に言及されたことも感銘深く、先生の教えに添った家庭作りをこれからも心がけたいと強く思いました。聴衆の方の心からの拍手が鳴り止まなかったことも感動的でした。
   (FF子、東京都)

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(編集部から)小誌は「三島由紀夫研究会」(昭和四十六年創設)の会員に限定せず、三島研究の論文、エッセイを常時募集しております。
 比較文学論(たとえば「吉本隆明と三島」とか)、作品論(たとえば『仮面の告白』に新解釈)、読後感、政治論、芸術論。まるで分野を問いません。三島先生自身が古典から前衛まで、映画からシャンソンまで万能の作家でしたから。
 「憂国忌」や「公開講座」への希望講師、御感想も歓迎です。
 皆さんからの御投稿を広くお待ちします。原則として実名。簡単な肩書きをつけて下さい。ただし三島文学批判も構いませんが誹謗中傷のたぐいの投稿は採用しません。ゲスト寄稿者コーナーも常設しております。
 一部の原稿は年二回発行のメルマガ合本に掲載することがあります。
       ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
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三島由紀夫研究会 HP URL http://mishima.xii.jp/
      メール  yukokuki@hotmail.com
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素晴らしい!若い人たちがこうした内容を真に理解し、己の心血として生きてくれるよう願います。日時:2007年11月27日


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