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創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ




三島由紀夫研究会メルマガ

発行日: 2006/10/2


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『三島由紀夫の総合研究』 
   三島由紀夫研究会 メルマガ会報
     平成18(2006)年10月3日(火曜日)
  通巻第65号
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 12月刊行予定の三浦重周遺稿集『国家の干城、民族の堡塁』の概要が決まりました。
三浦重周(前三島由紀夫研究会事務局長)の遺稿集第二弾
下記がこれまでに寄せられた追悼文です。
次号に二回に亘って連載します。

 三浦重周氏を悼む
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シクラメンの花とともに

               深井貴子

 12月10日という日は、私が三浦さんに初めてお目もじの日です。
 髪型から私と違った世界の人と、ちょっぴり怖かった。言葉を交わすこともなく、お別れしました。
 それから暫くして私の知り合いから元駐日モンゴル大使のお別れパーティーがあるので着物を着て出席してほしい、とお誘いを受け、市ヶ谷のアルカディアに。
 その時、偶々「三島由紀夫研究会」の公開講座が同ホテルであり、元大使の本の書評を、版元の社長さんからの依頼を受け 宮!)正弘先生にお願いしましたら快くお引き受けくださり、その書評のおかげで本がたくさん売れたと喜んでいただきました。
 宮!)正弘さんがいらしているかも知れないからパーティー会場にちょっとだけでも、お顔を出していただくようお声をかけたいので同行してほしいと、その版元の社長に頼まれ、受付に行きましたら、
「宮!)に伝えておきます。」と仰ってくださったのが、三浦さんでした。
 三度目の出会いも、あまりの偶然に私は驚いて同行のお仲間に「今日はあまりに偶然
が重なる日でちょっと精神状態が変になりそう」と不安を訴えるほどでした。
 偶々、熱海に知人20人くらいで一晩泊まりの懇親旅行だったのですが、以前からお目にかかりたかった芸子組合の姐さん、道を尋ねたその人が、その組合長の姐さん、それだけでも驚いているのに知人がお婿さんにと望まれたという元総理の名前が書かれた石塔が目にとまり、尋ねたお寺のお坊様に「貴女は若いのに徳のある人だ、是非、12月の印度旅行にご一緒しましょう」と。
 そのお坊さんはスリランカに、何年も眼鏡を無料でお届けにあがっている徳のあるご住職さま。インドやタイにも毎年支援活動でお出かけになっておられる方です。90歳。
 三島由紀夫さんが「日本人はいつかきっとインドに行きたくなる時が来る、お釈迦様の生まれた国だから」との言葉を思い出し、一瞬ご一緒しましょうといってしまったほどでした。実際にはご一緒できませんでしたが。
 そしてホテルのエレベターで三浦さんとばったり。
 ホンの一瞬でしたが、『あ?いらしてたのですかぁ』ときまりわるそうなお顔をなすった様でしたので、私がお声を掛けてしまったのが悪かったのかしら?と、ずうっと後悔していました。
今年の春、かねてから行きたかったインドへむけて、飛行機が成田を飛び立った時、涙があふれて仕方ありませんでした。
「三浦さん、貴方と思いを同じくする日本人が、200人以上もこうして印度への旅に。 
 三浦さんもご一緒出来たらどんなにか良かったのにねぇ〜〜何故?」
 慟哭するほど心の中で、三浦さん〜と叫んでいました。
 2月にお墓参りに、新潟に一人で行った時に、自決現場が一瞬嵐になったのです。
 用意した花は吹き飛ばされ、私もそれこそ、日本海に引き込まれるかと思うほどの強風と強い雪嵐。新潟の岸壁に乗せて行って下さったタクシーの運転手さんも、
 「自決なさった方は、お客さんのどんな人だったのですか?」
 どういったらいいか私にもわからない。三度お目にかかっただけで、言葉一つ交わしていない三浦さん!
 でも三浦さんが私に何かを託したかったように思えてならないのです。
 新潟から帰ってひどい風邪に悩まされました。
 馬鹿は風邪をひかないの例えで、健康だけが有一の取柄の私が、声の出ない日が何日も続き床を離れられないでいました。
 それから暫くして、フゥゥと三浦さんの霊が私から離れていくのを感じました。後で、お世話になった人に三浦さんがお礼を述べたと聞きました。
 自決なさる前に、シクラメンを持ってお別れに三島先生のご霊前にいらしたのですね。何方かしら、こんな高価なシクラメンを持ってお墓にいらして下さった方は?
その時は解りませんでしたが、追悼番組でシクラメンをもってスナップに写る三浦さんを見て「そっか〜」と思い当たりました。
初めてお目にかかった日が、三浦さんのご命日になるなんて。でも私は三浦さんに出会えたから、果報者です。三浦さん周辺の方に、大事にして頂いていますから。
安らかにお眠りくださいね。そして今度お目にかかったら皆さんにお見せになった優しいお顔で私に接してくださいね。

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 大嘗祭の秘儀と三浦烈士の遺志

西 法太郎

 三浦氏はもの静かな、なんともいえない雰囲気を持った方でした。 
 三浦氏のお若い晩年の一面しか知らない私ですが、自分の思いを外に出さず内に抑えておられる方でした。そして通常の人間の持っている”欲”がまったく感じられない方でした。
 静かで控えめで、霊妙な空気を周囲に醸されていました。 
 平成十四年一月三島研究会でペマギャルポ氏が講演した後、私が三浦氏へ出したメールに対して頂いたご返信は次のようなものでした。

・・・私もギャルポ氏のお話を大変印象深く拝聴致しました。三島先生の死が戦後の精神史的転換点であったというのは長く研究会を主宰してきましたが初めて聞くものでした。学生時代に三島先生の死に出会いそれ以降三島に関わって来ましたが、三島の偉大に比して年々歳々己れの卑小さのみが痛感され萎縮することもありましたが、この話を聞いてもう一度発奮しなければならないと思っております。・・・

 ご返信には「もう一度発奮しなければならないと思っております」とありましたが、発奮せずに逝かれてしまいました。 しかし自裁により残された者の心を揺さぶり続けておられ、想いは遺稿集に編まれ、我々に受け継がれています。三浦氏はそれらを通じてご生前は身辺だけに立ち起こされていた霊妙な情感とご思想を今は広く喚起し恢弘しておられます。
 さて第一遺稿集『白骨を秋霜に曝すを恐れず』で、私が興味を惹かれますのは、「大嘗祭を平成維新の転回点に」のご論攷です。
 三浦氏は海部内閣が今上陛下の即位の儀式中の大嘗祭を国事行為から外し、皇室行事として分離したことに怒髪天を衝く憤激を吐露されています。 特に大嘗祭の持つ本義の観点から海部内閣の所業に痛憤しています。 ご論攷を読んでいて憤激を含んだ筆圧を感じます。
 即位の礼と大嘗祭の行為の主体が異ってしまうこと、そして大嘗祭の重大な意義を弁えないこと、政教分離の原則を履き違えて解釈している官僚と時の政権に怒りをあらわにしています。 行政と政治によるまことに浅墓で不忠の所為と申せます。
 三浦氏は畏れ多い秘儀であると大嘗祭の内容にあからさまに言及することを控えていますが、本稿では大嘗祭の秘儀をつぶさに見て、三浦氏の痛憤を裏付けてみたいと思います。
 よくある誤解は、新嘗祭との比較においてです。 大嘗祭は新嘗祭の特別のもので一方は毎年行われ、他方は即位のときに盛大に行われるという理解がなされています。平凡社「大百科事典」あたりには「古代から続く天皇即位の儀式。天子が年毎の稲の初穂を、皇祖神に供えて共食する祭りを新嘗祭(にいなめさい)といい、それとほぼ同じ内容を、天子1代に1度の大祭として行うのが大嘗祭である。古くはこの祭りによってあらたな天皇の資格が完成するものとされていた。…」とあり、一般の浅い理解は致し方ないものです。
 新嘗祭は五穀豊穣への感謝の念を捧げるものです。
 大嘗祭は新嘗祭の持つ感謝を捧げる部分とともに、皇祖・天神への祈りを籠めて、先帝から御霊を受け継ぐ最重要の祭儀を含むものです。
 大嘗祭は秘儀とされ、儀式内容は幾重もの沙羅に包まれたように不分明で、従ってその大切な意義は明瞭にされませんでした。 ここに大嘗祭への一般の理解が不足し徹底しない原因がありました。秘儀について詳しく述べられている論説に目を通すとこの祭儀の畏さと重大さが判ります。
 大嘗祭について、旧皇室典範ではその第十一条に、「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と明記されていました。これに則り、大正四年睦仁親王が、昭和三年裕仁親王が、即位式と大嘗祭を「御大典」として京都で挙行されました。
 しかし終戦後マッカーサーの指示・命令でこの規定は改変され、1946年典範の二十四条で「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」と素っ気ない表現となり、「大嘗祭」の三文字が消し去られ、「京都」という場所の表記も削られてしまいました。
 こうして大嘗祭は、マッカーサーの意図により、日本国民の間から忘却されていきました。
大嘗祭の重大な意義も、学者の不見識が蔓延り軽んじられていきました。17年前今上陛下の即位で、忘れられていた大嘗祭について、議論が俄かに沸き立ちました。
 1989年2月6日付け朝日新聞夕刊は「大嘗祭」(権威の構造 天皇制のいま)と題した特集の中で次のような記事を載せています。
 
 宗教儀式の見方大勢 「国事に」の声も消えず
 
 政府は昭和天皇の喪があける来年1月以後に、即位礼と大嘗祭(だいじょうさい)についての方針を明らかにする意向といわれる。
 
 《皇位の継承があったときは、即位の礼を行う》――現皇室典範第24条の規定通り、即位礼は外国からの賓客も招いて、国事として挙行されるだろう。だが、明治期に制定された旧皇室典範には条文化されながら、現皇室典範からは削除された、宗教色の濃い大嘗祭の取り扱いはどうなるのか。やるのか、やらないのか。やるとすれば、どういう形式になるのか。
 タブー化した天皇制論議の陰になって、市民レベルでは永らく手つかずになっていたこの問題に、一石を投じたのは哲学者の上山春平氏(現京都国立博物館長)だった。上山氏は昭和59年11月21日付朝日新聞文化面(東京)に発表した「皇位継承儀礼は京都で出来るか」と題する論文で、「大嘗祭は現行憲法下では国事として行うのは不可能に近く、存続させるとするなら、即位式と切り離し、内閣の関与しない《内廷の祭祀》とするほかあるまい。大嘗祭には多額の経費がかかるが、国民の募金で内廷費の不足を補うという道もないではなく、その道が開ければ大嘗祭を行う場所として、京都御所の故地が最もふさわしい」と論じた。

 新嘗祭の伝承は、「万葉集」、「風土記」にみられ、その時代から一般人の間で行われ、それが宮廷にも移入され、宮廷行事として確立していきます。だいたい天武・持統帝の七世紀の頃と思われます。
大嘗祭は天皇の代替わりのときだけ行われる皇位の万世一系を確認する儀式です。 国政上は即位の礼だけでよいのですが、神話の上では大嘗祭の儀礼で天皇の霊が再生し、継がれ、万世一系の永続が保証されていたのです。
天皇系譜の永続性は、天孫降臨の記紀神話に描かれる場面に表されています。
折口信夫は神話の中に天皇霊の不変と永続性の縁(よすが)を見出していて『大嘗祭の本義』で、大嘗祭のうちに天皇の死 = 再生の儀礼が織り込まれていると論じています。
 大嘗祭では、御所である禁中に、悠紀殿と主紀殿の両殿が仮設されます。因みに、秋篠宮の第三子の御名前の悠仁は「悠紀殿」の”悠”からとられたと巷間伝えられもしています。両殿には天皇の寝所がしつらえられ、茵(しとね)と衾(ふすま)が持ち込まれます。
 天皇は日嗣の皇子(ひつぎのみこ)として、この中に籠もって物忌み、禁忌の時間を送ります。
「日本書紀」の天孫降臨でニニギノミコトをおおっている真床襲衾(まどこおうすま)が寝所の茵と衾にあたります。天皇は一晩この衾に身をくるみ、目覚め起き上がると、先帝の「魂」が新天子のからだに移され、万世一系の正統性がつながれるのです。
 天皇の肉体である現身(うつせみ)は一代ごとに変わっていき、同一でなくても、その肉体から肉体へと移される「魂」は不変で同一だという観念が根っこにあるのです。この「魂」が永遠の「天皇霊」です。
 血統のうえでも「皇位」の継承が考えられ、信仰の上でも不変の魂(天皇霊)が継がれているのです。この天皇の魂が不変であることを儀礼的に確かめているのが、毎年行われる新嘗祭です。 
大嘗祭がメイン・ファンクションを受け持ち、新嘗祭は大嘗祭の効果をつなぎ留めるサブ・ファンクション的役割りを果たしていると云えます。
 大嘗祭の祭儀日程は、四月の「新穀を供献する両斎国の卜定」から辰巳午の三日間の「節会」まで八つの祭儀がみられます。
 とりわけ注目されるのは、十一月卯の日に行われる大嘗祭儀です。
これには秘儀が含まれ捕捉が難しいところがありますが、いくつかの儀式の様態からシンボリックな意味を探ってみます。
 まず聖水での沐浴が挙げられます。
 天皇は、禁中での儀式に先立って、賀茂川に行幸して穢れを落とす禊祓いをします。禁中に入ってさらに御湯殿事(おゆどのごと)に臨みます。これは秘儀とされ、御湯殿と廻立殿で計二回行われます。幾度も身を清め、穢れ落としをします。
 御湯殿で天皇は、「天羽衣」という薄衣を着用して湯につかり、それを槽のなかで脱ぎ捨て、あがってから別の「天羽衣」に着替えます。
 身につけた湯帷子を湯の中で脱ぎ捨て、物忌みから離脱して、新しい霊を受け入れる清しい状態を得るのです。大変な段どりです。
 大嘗祭のもうひとつのポイントは鎮魂(たましずめ)の側面です。
 「日本書紀」にある「天皇霊」という言葉は先帝の霊で、これを新帝は自らの肉体に移し、威力を身につけます。この霊が年末には衰えるので、毎年十一月にたましずめの儀式をおこない、魂にエネルギーを注入します。 大嘗祭では先帝の衰え弱った霊を鎮めることも重要な意味を持つのです。悠紀殿・主紀殿の中では、神(先帝)の霊と人(新帝)が共に在るのですが、そのときに新帝は先帝のご遺骸と添い寝をしたと説く学者がいます。 
 折口信夫は『大嘗祭の本義』で複雑な事情が介在していると暗示するに留めていますが、その異稿中に畏れ多いことだがと述べつつ先帝と同衾して移霊を行った蓋然性を指摘しています。
悠紀殿の衾に先帝のご遺骸を安置し、主基殿に新帝が籠もられ悠紀殿の先帝の亡骸に魂を蘇らせ強める鎮魂がおこなわれたと折口は『大嘗祭の本義』で推測していますが、むしろ異稿にあるように新帝が先帝の亡骸と同衾したと思われます。 同衾し天皇霊の引継ぎを直接的にしたという可能性は否定できません。
 亡骸は穢れあるもので、だからこそ神聖な場所で秘儀として、先帝と新帝の同衾というカタチで移霊(たまうつし)が行われたと思われるのです。事柄は重大で、本来あからさまに述べられない性質のものですが、昭和三年時点で折口は晦渋ながらも同衾説を暗示しているのです。
大嘗祭は先帝霊の葬送の意味を包んでいたかも知れません。つまり、殯(もがり)の儀式の意味を持ち蘇生の不可能性を見極め、先帝の霊を新帝に移したのです。
 三つ目に挙げておきたいのは、両殿内部がそれぞれ南と北に仕切られていて、南の「堂」に関白・宮主・采女が控え、北の「室(むろ)」には衾が置かれ、その脇に神饌用の小さな神座と天皇用の御座が置かれました。 この衾に共寝者がいたのなら先帝の亡骸以外に聖婚のための相手が想像されます。性を開放しなければ御子はもうけられず民族の豊饒はないわけで、ここで聖婚が行われたという説もあります。
 以上のように大嘗祭は重層的な意義を持った儀式・儀礼です。秘儀とされるのはドロドロとした部分があるからです。
 大嘗祭の最重要事は、先帝の霊(天皇霊)を強めて、それを新帝の肉体に移すことにあります。
その移された霊のリバイタライズは毎年の新嘗祭ではかられ、天皇のからだに取り憑く異霊は後七日御修法(ごしちにちみしほ)で取り除かれます。こうして天皇霊は大嘗祭で代々の天皇にしっかりとリレーされ、新嘗祭と後七日御修法で維持・強化・保護されてきたのです。
 他国の一王朝がせいぜい数百年で滅びるのは、血統だけで維持しようとするからです。王位を受け継ぐたびに継受者の血は薄れ、濁っていきます。
 その王統の正統性の根拠は揺らぎ、民衆の忠誠心が散じるのは当然です。「血」でのみつながれた海外諸国の王朝と日本の天皇家の違いはここに在ります。 
 霊は受け継いで薄れ穢れるものではありません。 天皇家が二千年以上繋がっているのは男系系統を辛苦を以って護っているからであり、 且つ日本民族の尊崇の念を皇室が絶やさないのは大嘗祭で天皇霊を繋いでいるからです。
 大嘗祭を十全に挙行し、男系の天皇が天皇霊を受け継ぐことで全き皇統が保たれ、日本民族は古来から、そして未来に向けて、安寧でいられる理(ことわり)です。
ここまで小論を読まれた賢明な読者は、天皇霊のつながりを担保している大嘗祭は軽んじるべきものでないと、お判りになったことでしょう。

 1946年憲法二十条に政教分離が規定されている、だから天皇が祭司として神に対する大嘗祭は、国事ではなく宮中行事とすべきで、その費用は内廷費で賄えとするのは政治的、小手先処理的な誤魔化しです。内廷費だって税金からでているのです。 多大の出費を要する大嘗祭はやはり国事行為として費用を手当てすべきです。1946年憲法はマッカーサー配下の隠れコミュニストらが中心となって作成した噴飯憲法ですから、これに捉われること自体不甲斐ないことです。日本人の歴史意識と伝統に則って決めるべきです。戦力を保持せずと第九条にあっても、世界有数の戦力を有する軍隊を日本は持っているではありませんか。
 ドイツでは基本法第七条第三項で「宗教教育は、公立学校においては、宗教に関係のない学校をのぞいて、正規の教科目である。宗教教育は、国の監督権をさまたげることなく、宗教団体の教義にしたがって行われる」として、通常宗教教育は、カトリック教会およびプロテスタント教会の指導のもとでなされています。
 米国においては、大統領就任式や国葬など主要な国家儀式がすべてキリスト教式で行われます。裁判所にはモーセの十戒が掲げられています。  
 国王をギロチンで断首した共和制のフランスは分離原則が徹底していて、憲法第二条で「フランスは不可分にして、非宗教的、民主的、社会的な共和国である」と定め、「非宗教」の原則が政治の場だけでなく、公教育においても厳格に守られてきました。1989年イスラム教女子生徒のヒジャーブ(ベール)着用を禁止したことが、フランス教育界を揺るがす大きな議論となりました。人生いろいろ、会社もいろいろ、宗教分離も国によりいろいろなのです。
 
三浦氏はご論攷の中で昭和五十二年津地鎮祭訴訟の最高裁判決から目的効果説を援用して日本の政教分離を論じておられます。
 この目的効果説によれば、大方の日本人が、自分の信じ属する宗教心を、侵された圧迫されたと感じない範囲であれば、 政治が宗教的な行為に関与しても問題ないのです。政教分離のこころは、政治が一定の宗教をサポートしたり、国民に押し付け強要したり、または迫害しないことにあります。 それが日本の政教分離です。完全無欠の政教分離がお好みの方々はフランスのような国へ移住されては如何でしょう。 そういう国に収める税金であれば一銭も宗教行為に費消されません。
 1946年典範改正には、旧宮家の復活、譲位の制創設とともに旧皇室典範第十一条を復活して大嘗祭を国事行為として明記すべきです。
 大変費用の掛かる儀礼です。しかし一代一回です。
 典範改正時に、大嘗祭とともに斂葬の儀(竹下内閣が国事行為の大喪の礼と皇室行事の斂葬の儀に分離)の国事行為への復活も併せて図らねばなりません。 これらは三浦烈士の遺志でもあります。     
                                                                     
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 身はたとえ越後の空に
          三浦重周君を想う

                         玉川 博己

 私が初めて三浦君と会ったのは昭和45年の春4月、早稲田大学入学式の当日に私達が大隈講堂前の正門横に出店を出して日本学生同盟と早大国防部の新人募集活動を行っていた時のことである。
一人の長髪の青年が私達の出店にやって来て、即座に加入を申し込んできた。
それが早稲田大学政経学部に入学したばかりの三浦重雄(後重周)君であった。新潟訛りで言葉がよく聞き取れないところがあったが、澄んだ目が印象的であった。
この年は3月に赤軍派によるよど号ハイジャック事件があり、11月には三島事件があり、まさに昭和戦後史の中でも激動の年であり、私にとっても忘れられない年であった。ちなみにその時私は慶應義塾大学の3年生になったばかりで、日学同の書記長を務めていた。
昭和44年1月の東大安田講堂落城で一時下火になったかに見えた左翼全共闘運動はしかしより過激になり、各キャンパスは諸党派が活動家獲得に鎬を削っていたのである。私も拠点であった早大をはじめ各大学を回って新人募集に全力をあげていた時であった。
 三浦君が入学してまもない頃行った日学同のコンパの席で、指名された三浦君が「わが国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある」で始まる軍人直諭の全文を朗々と暗誦したことを覚えている。
この年の7月私達は朝霞にある陸自第31普通科連隊に体験入隊をした。各大学の国防部・国防研から参加した30名の学生達であったが、三浦君はその隊列の先頭に立ち、隊旗である早大国防部の旗(えんじ色で旭日を染めたもの)を旗手として捧持し、炎天下の行軍や野外演習でも元気溌溂と行動した姿が今も忘れられない。

三浦君は民族派運動が単に左翼学生運動に対するアンチ運動に終わることなく、その戦線を青年、社会人にまで延翼することを考えていた。
それが後年の重遠社運動の創設につながった。また理論、思想面でも大変な勉強家であった。明治以降日本のナショナリズム思想が飛躍的に発展したのは大正後期から昭和初期にかけてであり、北一輝、大川周明、石原莞爾らの昭和維新の諸思想、アジア主義、東亜共同体思想、京都学派らによる世界史の哲学、そして「国体の本義」を頂点とする国体思想の高まり等々であったが、敗戦により一度は瓦解してしまったこれらの民族主義の系譜を再点検し、そして戦後ヤルタポツダム体制打破から国家革新への新たな思想を再構築しようとするのが三浦君の意図であった。
一方、三浦君は極めて柔軟かつ懐の深い人物であり、また人間的魅力に富んでいたことは皆が同感するところであると思う。フランス革命におけるジャコバン派とジロンド派、或いは明治維新に至る薩長の対立と統一の例を見るまでもなく、革命運動の歴史は必ず過激派と穏健派の対立を生み、統一と分裂を繰り返す。それが革命の弁証法であるのだが、民族派学生運動もその例にもれない。
その中で三浦君は様々な内部紛争や分裂を統一止揚する統率者としての資質と風格を自ら育んでいった。晩年における彼の恰も仙人然とした風貌は人間としての彼の成長を示すものであったと思う。
昨年12月、三浦君の壮絶な自裁の報を聞き、とっさに私が想起したのは高山彦九郎、三島由紀夫、森田必勝、影山正治らの過去から現在に連なる尊皇諸烈士の道統であり、また村上一郎氏の最期であった。
最後に、昨年暮れ三浦君との別れに際して私がひそかに詠んだ愚作三首。

身はたとへ越後の空に果てるとも永久に生きなむ我が丈夫の魂
海ゆかば歌ひて送る我が友に滂沱の涙止まらざりけり
茜色武蔵の野辺にかたぶきて北斗のかなた君をしのばむ

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 透明感のある存在
三浦重雄氏とのこと
                                      柴田章雄

 昭和45年四月、早稲田大学近くにあったジュリアン(日本学生同盟創設者である矢野氏経営の喫茶店)で一人の早大生と出会った。これが私と三浦氏との初めての出会いである。
 当時、全国に吹き荒れた学園紛争の嵐は、安保改定のこの年、それまでの「学園民主化」「大学の学生自治」という枠を超えて、「安保改訂阻止」「日本帝国主義打倒」という共産革命路線へ大きく変わりつつあった。
 こうした左翼学生運動に対抗して、日本学生同盟を中心とする民族派学生運動も活発に活動をしており、毎日のように激しい争いを続けていた。
 私は高校時代より日本学生同盟(日学同)のシンパだったこともあり、国士舘大学に入学すると同時に日学同に正式加盟した。この頃の日学同はワセダハウスを拠点に、毎日のように各大学、街頭で演説会やチラシまき、ポスター貼りをしていた。
そして機関紙である「日本学生新聞」の購読者や、日学同政治集会への参加者に電話をかけて同志として加盟を働きかけるという、いわゆるオルグ活動に明け暮れる毎日だった。
 そんなある日、ワセダハウスにいた私に、あるOBから「おい柴田、三浦という学生が日学同の話を聞きたいと言っているから、おまえ行ってこい。」と言われて出かけたのが前述のジュリアンにつながるわけである。
多分、三浦氏から電話があって、それを受けた宮崎さんか齋藤さんが、暇そうにしていた私に命じたのだろう。
 初めて会った三浦氏は、私の話すことにひとつひとつ「はい、はい」と頷く、物静かな礼儀正しい青年であった。私が日学同のオルグ・マニュアル(実際にはこういうものはなかったが、自然に話す内容の流れはできていた)にしたがって話をしたあと、「あなたはどう思いますか?」の問いかけに、三浦氏は新潟弁まじりの言葉でとつとつと思いを語ってくれたのを覚えている。
そして「いっしょに日本学生同盟で活動しませんか?」との誘いに、二つ返事で同意してくれて、そのままワセダハウスに案内したと記憶している。
 このようないきさつもあり、年も同じということで、それ以来「柴田」「三浦」と呼び合う仲になり、共に4年間を過ごすことになった。

 何度かお互いの下宿を行ったり来たりしていたが、彼の下宿は3畳か4畳半のスペースに天井まで積み上げられた本が印象的であった。
その本の山と山の間に小さな座り机と万年床が彼の根城だった。寝てるときに地震でもあったら本に埋まってしまうのは確実だろう。彼は仕送りもあまりなく、朝夕の新聞配達のアルバイトで汲々の生活であったが、本にだけは惜しまずに金を使っていた。
 考えてみれば、彼は晩年まで金銭的に裕福な生活とは縁がなかったようだ。というか、そういう金銭に対する欲というものがなかったような気がする。
 私も仕送りと、たまのバイトで生活していたから、そんなに悠々とした生活はできなかったが、三浦氏はさらに貧しい生活だった。しかし彼はそんな貧困も意に介さずで、どこか透明感を感じさせるような存在だった。

 三浦氏の貧困生活のエピソードには事欠かないが、いくつか紹介しよう。
 ある日、飯田橋の事務所(東京中央ビル)に行ったら、彼が何やら美味しそうに食べているではないか。「何、食べてるの?」と覗き込んだら、何と赤ちゃんに与える粉ミルク缶をかかえて、粉をスプーンで口に運んでいた。「これは赤ん坊が成長するために作られているから、栄養は十分なんだ」と言ってニコっと笑った顔が今でも忘れられない。
 もうひとつ。「おい柴田よ、オレもう1、2ヶ月風呂に入ってない気がする」と言ったことがある。「うん、オレもしばらく入ってないから一緒に行くか。」と、高田馬場にあったサウナにいったことがあった。
確か一人5〜600円(記憶が定かではないが)でタオルを貸してもらって二人で入った。蒸気で体の垢を浮かしたあと、石鹸をつけてゴシゴシこすったら面白いように垢が取れる。風呂上りに三浦氏の顔を見たら白く見えたから、よほど汚れていたのだろう。出るときにはタオルを返すわけだが、タオルの色が黒くなっていて返すのが恥ずかしいほどだった。もっとも箱に放り込むだけでよかったが。
 三島由紀夫氏と森田必勝氏の声が市ケ谷台にこだまし、壮絶な自決で幕を下ろした運命の昭和45年11月25日。
大学にいた私はニュースを聞いて学校を飛び出しワセダハウスに駆けつけた。既に大勢の同盟員でごった返していたが、その場に三浦氏がいたかどうかは覚えがない。
その後、豊島公会堂で「三島由紀夫氏追悼集会」(のちに「追悼の夕べ」と変更)を開くことになり、その実行委員会のようなものが開かれた。そして、だれかが持ち込んだテープレコーダーから自衛隊員に向かって演説する三島由紀夫の声が流された。
その場にいた私たちは、あるいは下を向き、あるいは瞑想し、それぞれの思いにふけって聞いていた。そのとき、「オイオイ」と大きな声を上げて泣き出したのが三浦氏だった。いつもは物静かな氏だけにこういう感情を表に出す面もあるんだなあと印象深く覚えている。
 大学を卒業して私は郷里の名古屋に戻った。
それからは、三浦氏に会うのは彼が全国遊説の途中に名古屋に来たときか、憂国忌で私が上京するときぐらいになった。
 そして、平成16年の秋に出張で上京した際に出会ったのが最後になってしまった。
 上京が決まったとき、三浦氏に電話をして久しぶりに会おうということになり、氏の展覧会が開かれると言う上野へ出かけた。
三浦氏の悪筆はことに有名だったから、書をやり始めたと聞いて驚いてはいたが実際に見るのはこれが初めてだった。「何で書をやる気になったの?」の問いかけに、「何度も司法試験を受けたけど字が下手すぎて合格できない。だからさ。」と笑いながら答えてくれた。あれは本心だったのだろうか。
 その後、近くのレストランで昼食をとった。そのときに「憲法改正が国会で前向きに論じられるようになったね」と私が言うと、彼は「自主憲法制定は我々の専売だったのに、憲法改正が政治スケジュールに乗ってしまうと、我々の存在意義がなくなってしまうかも知れないなあ」と、思いがけない返事が帰ってきた。
1年後、三浦氏の壮絶な自決を聞いたとき、私の頭にこの言葉が一番に甦ってきた。
 共に学生時代を過ごし、その間に天下国家を論じ、国のために命を投げ出す覚悟はできていると、口では言ってきたが、実際に三浦氏の壮絶な自決を聞いたとき、私は脳天に落雷したようなショックを受けた。
なぜ? なぜ死を選んだのか。遺書もなかったと聞く。三浦氏の死に衝撃を受けた人は、その人の数だけ自決の理由や意義を問いかけるに違いない。
 三浦氏の葬儀、偲ぶ会ともに参加することができなかったが、いつの日か新潟港の岸壁に立って氏の冥福を祈ろうと思っている。合掌。

(つづきは次号に。なお、これらの追悼文は遺稿集の巻末に別冊で収録の予定)
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