
私が前日ライラと出会った売店の前に、彼女は約束した12時きっかりにやってきた。店番をしていなかったところを見ると、午前中は別のところで仕事をしていたらしい。
前の晩にライラと話していた通り、私たちは売店の向かい側にあるウイグル料理屋で昼食をとることにした。
車やバイク、ロバ車や自転車がせわしなく行き交う道路を横切りながら、右手のほうに視線を向けると、前夜に宿へ戻る途中に通った交差点が見えた。
私の周囲ではクラクションが鳴り響き、交差点は車やバイクが巻き上げる砂塵でわずかにかすんで見える。私はそこで深夜に出くわした、不思議で美しい光景を思い出していた。
交差点で止まった車のライトが暗闇の中をスポットライトのように照らす。その光の筋の中では砂塵が浮遊している。そこをロバ車のシルエットがゆっくりと横切っていく。アスファルトをたたくロバの足音が深夜の交差点に静かに響く。
時間帯や交通量が違うというだけで場の雰囲気がこうも違うものかと、私は道路を渡った後も交差点の方角をしばらく眺めていた。
同じ場所でも、時間帯によってまるで別の場所に感じられるくらいなら、いつでもありえることなのかもしれない。けれども、日頃はなんとなくそんなことを感じることがあっても、頭を一瞬かすめていくだけだろう。ところが不思議なことに、旅の中での一瞬は、そこでしばらく無意識のうちに立ち止まって何かを思い出したり比較したりしてみたくなってしまうものだ。
もちろん、旅の中では立ち止まる余裕があって、日本で日常をおくっている時にはその余裕がない……。旅の最中は嗅覚鋭く周囲を観察するけれど、日頃は他に考えなければいけないことが山ほどある……。そんなふうに思えないわけではないけれど、本当にそうなのだろうかと考えてしまうこともある。
特に旅の中で、日頃はあまり考えないようなことを考えた時。日本での日常で気がついてもいいはずのことに気がついていないと初めて自覚した時。そんな時によく思うのは、実は一見忙しそうに余裕なく日常を過ごしている時のほうが、はるかにぼんやりしているのではないかということだ。それは、忙しい中では大事なことを見過ごしてしまいがち、といった意味合いのことではなく、ほんとうにぼんやりしているから考えが及ばない部分が多々あるのかもしれないということだ。
そんなことを考えてしまうのも、結局は旅の中だからなのだろうか。
ライラが薦めてくれたウイグル料理屋はお昼時でほぼ満席だったが、そこで働いているライラの中学時代の友人がわざわざ店の奥のほうにある大きなテーブルをあけてくれた。
「ラグマンでいい? カワプも食べる?」
ラグマンはトマト風味でこしの強い皿うどん、カワプは羊肉の串焼きで、どちらも新疆にいればどこででも食べられる典型的なウイグル料理だ。私ももう何度食べたかわからないが、旅の後半になってもその味には全く飽きることがない。
ライラの薦めもあって私は迷いなくラグマンとカワプを食べることにした。
ライラは、午前中とは別のところで昼過ぎから仕事があるのだという。あまり時間もないようで、彼女は自分が注文したラグマンを半分ほどかき込んだかと思うと、「御代は払わなくていいからね」と何度も私に念を押して足早に店を出て行った。
ライラはウルムチの高校に越境入学して、卒業後はヤルカンドへ戻ってきた。
香辛料がたっぷりとかかった香ばしいカワプをほうばりながら、私はライラの日常に思いを馳せてみた。自分の希望がかなわずヤルカンドへ戻ってきた彼女は、今どんな日常を送っているのだろう。
しばらくすると、店で働くライラの友人が、「冷めてしまったから」と皿の上にあった2本目のカワプを温めなおしてきてくれた。
(次号へ続く)
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