エッセイ 湊徹彦 |
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エッセイ 湊徹彦 vol 225 2004年10月16日
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◆不思議なヤツら◆
第二次世界大戦のドイツにロンメル将軍ってのがいましたね。
ロンメル機甲師団って戦車部隊。
1941年リビアでイギリス軍を追い「砂漠の狐」と恐れられました。
ところが、本国からの燃料の補給を断たれ、戦車が思うように
動かせず、1943年にチュニジアから撤退した時には、多数の戦車を
砂漠に置き去りにしました。
ええ、ガス欠。
まあ、ここら辺は、いまだに人気のある戦争映画でご存じだと
おもいますが。
ところが、皮肉なことに油がなくて、機甲師団が撤退したリビア
砂漠の下は広大な油田ですよね?
いやー、油田の上でガス欠になって、戦車を置き去りにしたなんて
皮肉。
こんな皮肉は、日本の太平洋戦争でもあったんですよ。
当時、日本が占領していた満州(中国東北地方)にも油田が
あったんですよね?
旧満州で油田が開発されたのは戦後でしたが、あったことはあった。
こんなことは知らないから、日本軍は南方の石油を獲得するために
1941年に真珠湾を攻撃して戦争をはじめました。
日本の備蓄石油は連合艦隊が3ヶ月動ける分しかなくて、
アメリカと戦争をはじめたんですから、もうヤケッパチの戦争。
海軍は、あの戦争に反対だった、って聞いたことあるでしょう?
あれ、本当かなあ?
陸軍は中国に攻め入ったまま、国家予算の半分は確保したまま。
アメリカと戦争するって言うのに、乏しい軍事予算を海軍に回しては
いないんですよね。
何で、こんな話を始めたかといいますと、石油の話。
真珠湾攻撃では真珠湾に碇泊していた巡洋艦とか駆逐艦だけを
攻撃しました。
真珠湾に碇泊していた、ってことは隣は修理ドッグ。
2ヶ月もしたら修理して復活してくるのはわかったこと。
あの攻撃で不思議なことは、当時ハワイはアメリカの太平洋艦隊
用の石油備蓄基地でしたから、石油タンクが林立していたのに、
これは一切攻撃しなかったんだそうですね。
石油基地を壊滅しておけば、アメリカは太平洋艦隊を西海岸まで
後退させざるをえなかったんでしょう?
燃料の補給基地がなければ、動きがとれませんから、アメリカは
ハワイにもう一度石油タンク群を再構築しなければなりませんよね?
その後の作戦のことを考えると、アメリカの太平洋艦隊の動きを
止めるなんて基本的な作戦と思うけど、修理ドッグの隣で軍艦を
毀したのは、どんな思案だったの?
山本五十六って軍神だったって言うから、補給基地を叩くのは
武士道に反するとでも思ったのかなぁ。
こんなことを考えると、満州で油田を本気で探したのか、疑わしい。
当時の日本の地質学のレベルでも、満州に油田がある可能性が
高いのはわかっていたんでしょうにね。
いやー、「満州に油田があるのはわかっていた」なんて言う地質
学者もいますねぇ。
だったら、どうして南方まで攻めていったの?って思う。
その人の答えは、「満州を持っていたのは陸軍。石油が
欲しかったのは海軍。だから教えなかった」って言っているんですがね。
いくら陸軍と海軍の仲が悪かったとしても、そんなことがあり得る?
でも、役所の縦割り行政をみていると、陸軍が海軍に教えなかった
ことって「あり得ない」と言い切る自信がなくなってきた。
ところで、海軍は戦争に反対だったと言うことは陸軍がアメリカとの
戦争を始めたってことでしょうねぇ。
アメリカの経済力は日本の100倍だとか、200倍だったらしいから、
どんなにしても勝ち目はなかったと思うけど、せめて総力をあげて
闘ったと思っていたら、陸軍は中国に張り付いたまま。だから予算も
海軍に分けないで、ぶんどったまま。
これで、「海軍は戦争反対。陸軍が始めた戦争」って言われても
信じられない。
それにしても、リビア砂漠の広大な油田の上で、ガス欠して戦車を
放って逃げたロンメルって不思議なヤツだとおもってきたけど、山本
五十六も不思議なヤツだなぁ。
このあいだ若い人に太平洋戦争で死んだ人が800万人だと言ったら、
「へえー、広島の20万人だけかと思っていた」なんて言うから、
こんなことも書いてみました。
◆つれづれなるままに--184--◆
徒然草第184段
■原文
相模守時頼の母は、松下禪尼(まつしたのぜんに)とぞ申しける。
守(かみ)を入れ申さるゝことありけるに、煤けたるあかり障子の
破ればかりを、禪尼手づから小刀して切りまはしつゝ張られければ、
兄(せうと)の城介義景、その日の經營(けいめい)して候(さぶら)
ひけるが、「たまはりて、なにがし男に張らせ候はむ。さやうの事に
心得たるものに候」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り
侍らじ」とて、なほ一間づゝ張られけるを、義景、「皆を張りかへ
候はむは、遙かにたやすく候べし。斑に候も見苦しくや」と、
重ねて申されければ、
「尼も後はさわさわと張りかへむと思へども、今日ばかりはわざと
かくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理(しゅり)して
用ゐることぞと、若き人に見ならはせて、心づけむ爲なり」と
申されける。
いと有り難かりけり。
世を治むる道、儉約を本とす。女性(にょしゃう)なれども聖人の
心に通へり。
天下をたもつほどの人を子にて持たれける、誠に、たゞ人には
あらざりけるとぞ。
■訳
鎌倉幕府第五代将軍である北条時頼の母は、松下禅尼(まつしたの
ぜんに)と申された。
息子時頼殿を家に招待なさったことがあったが、煤けた明かり
障子の破れたところだけを、母禅尼がご自分で、小刀(こがたな)で
切り抜いて、張っておられた。
時頼の兄の秋田城介安達義景が、その日の世話役として、控えて
いたが、
「そのお仕事は、こちらにいただいて、下男にやらせましょう。
障子貼りの得意な者がおりますから」と申された。
すると母禅尼は、「その男でも、私ほど切り張り細工には堪能では
ないでしょう」と仰って、なお一こまづゝ張られた。
安達義景は、「切り張りではなく、全部を張りかえる方が、遙かに
たやすいですし、まだらでは見苦しいですよ」と、重ねて仰った。
すると、母禅尼は「私も後ほど、サッパリと全部を張りかえようと
思っていますが、時頼がやってくる今日ばかりは、わざとこうして
いるのです。物は破れた所だけを修理して用いるのを、若い人に
見習わせて注意しようとする為です」とおっしゃった。
世にも稀な奇特なことである。
世を治むる道は、倹約を基本とすべきである。
松下禅尼(まつしたのぜんに)は、女性ではあるが聖人の心を
持っておられたものである。
天下を治めるほどの名君になられた北条時頼の母だけあって、
誠に、たゞ人ではなかった。
* * *
北条時頼は時氏(ときうじ)の二男で鎌倉幕府第5代執権(1227―
63年)。
仁政の美談で名高く、諸国遍歴の伝説をもつ優れた政治家でした。
それよりも、執権職を得てから幕府の実権を確保するのに苦労した
話の方が有名です。
鎌倉幕府には親王である将軍と北条の執権がありまして、1246年
時頼は執権職を譲られたが、時の将軍は8歳の頼嗣(よりつぐ)でした。
ところが、在位25年の前将軍頼経の周りに、幕府の実権を握ろうと
する北条一族、御家人(ごけにん)らが集まっていました。
時頼は、名越光時(なごしみつとき)が三浦氏らと通じて執権職を
うかがった陰謀を打ち破り、光時を出家させて伊豆に流し、前将軍
頼経を京都へ追放。
ついで、母方の安達(あだち)氏の後ろ盾を得て、謀略によって豪族
三浦氏を滅ぼしました。
これで、幕府内における北条氏の独占的地位が確立しました。
それだけではなく、時頼は隠居した後も幕府政治の実権を握り
続け、執権政治から北条嫡流がなる得宗(とくそう)政治へ移行させて
しまいました。
将軍と執権、それに得宗(とくそう)は時代によってそれぞれ変わる
幕府の実力者ですが、いやー、分かり難いですねぇ。
まあ、ボンボン育ちでは、この複雑な政治の世界は生き抜いて
ゆけないことは、母松下禅尼(まつしたのぜんに)には分かっていた
でしょうから、わざと質素倹約を息子時頼に普段から教えていたんで
しょうねぇ。
当時の鎌倉幕府の将軍は、飾り物とはいえ皇族将軍でした。とも
すると、鎌倉武士も京都の公家風の善美が蔓延していたんでしょうね。
息子時頼がこんな善美の風に染まらないように心がけた母松下禅尼
(まつしたのぜんに)は、「誠に、たゞ人ではなかった」のでしょう。
でも、兼好がこれを書いたのは北条時頼の死後半世紀も後のことです。
なるほど、北条時頼は名君だったから、「息子が名君になったのは
母が偉かったからだ」ってことになっていたんでしょうが、母
松下禅尼の障子貼りの話が当時からあったものかどうかは眉唾だと
思われません?
こんな話にイチャモンをつけるのもおかしいですが、名家の
ボンボンを育てるのに母親が倹約を教えるのはよくあるパターン。
でも、名家のボンボンって、滅茶苦茶にケチか、どうにもしようが
ないほどの浪費家になるでしょう?
倹約を教えるのもいいけれど、アホに教えると「ひとにはケチ
なのに、自分のことには浪費家」なんて性格分裂になるもんねぇ。
それにしても、子供を教育するのは難しい。
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著者:湊徹彦(ペンネームです・神戸在住)
編集発行人:nobu
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