オーストリアの食文化を日本に正しく紹介し、より良い食文化交流行うことを目的として、営利を目的とせず、オーストリアの食文化を愛し、日本に正しく紹介してその普及に務める団体として活動していくマガジンです。
- 最新号:2008-09-08
- 発行周期:週刊
- 読んでる人:114人
- 創刊日:2004-09-20
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ウイーンの街・食文化・徒然なるままに・・・・
発行日: 2005/11/1日本オーストリア食文化協会メールマガジンは今回で満一周年を向かえ、紙面
が少し変わりました。これからもオーストリアの情報を皆様にお伝えできれば
と思い、頑張っていきますのでよろしくお願いいたします。
☆☆☆━━━━━━━━日本・オーストリア食文化協会━━━━━━━☆☆☆
ウィーンの街・食文化・徒然なるままに・・・・
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Nr.0013 2005年11月1日 (毎月発行)
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オーストリアの食文化を日本に正しく紹介し、より良い食文化交流を行う事
を目的として設立されました。
日本でオーストリアの料理・パン・菓子のプロフェッショナルとして活躍する
人たちの集まりであり、営利を目的とするものではなく、オーストリアの食文
化を愛し、日本に正しく紹介してその普及に務める団体として活動していくも
のです。もちろん、オーストリアに興味のある人はどなたでも会員になれます。
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○ オーストリアの歴史??
○ オーストリアの街角
○ 訪ねてみたい気になるお店(レストラン・菓子・パン店・その他)
○ 日本・オーストリア食文化協会
○ 編集後記
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【オーストリアの歴史??】 マリア・テレジアとその時代 その1
マリア・テレジアといえば皆さんはすでに良くご存知の事でしょうし、更なる
追記は不要かと思います。しかしマリア・テレジアが活躍していたその時代、
世界の情勢はどうだったのか・・・・少しは知りたいと思いませんか?
マリア・テレジアが生まれたときヨーロッパの諸国はどのような事件があった
のか、また日本ではどのような時代だったのか。神聖ローマ皇帝フランツ1世
シュテファンと結婚した当時は・・・・。
娘のマリア・アントニア(マリー・アントワネット)が結婚した当時は・・・。
マリア・テレジアが没した時、世界の情勢は・・・・。
そんなことを思いつくまま述べたいと思います。
まずは、皆様ご存知の彼女の履歴から述べましょう。
マリア・テレジア(Maria Theresia、1717年5月13日〜1780年11月29日)は、
神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの妃、オーストリア大公、ボヘミア
女王、ハンガリー女王。在位は1740年 〜1780年。
ここまでは皆様ご存知のことかと思います。
そして、これもご存知かと思いますが、マリア・テレジアは神聖ローマ皇帝で
はありません、神聖ローマ皇帝は夫のフランツ・シュテファンですが、しかし
実態は女帝そのものでした。
★マリア・テレジアが生まれた1717年、この時世界はどうだったんでしょうか。
○1717年8月16日(享保2年7月10日)
この時、オイゲン公が率いるオーストリア軍がオスマン軍と戦っておりこの日、
オスマン軍を破ってベオグラードを奪取しています。
○1717年8月22日(享保2年7月16日)
スペイン宰相アルベローニが、サルデーニャを占領してシチリア奪回を画策し
た日です。
○1717年8月28日(享保2年7月22日)
フランスの画家アントアーヌ・ヴァトーが「シテール島への船出」を発表した
日です。
★では日本では何が起こっていたのか・・・・。
○1717年3月15日(享保2年2月3日)
皆様ご存知の普請奉行大岡忠相が江戸南奉行に抜擢され、官職名を越前守と改
めた日なのです。
この年、江戸では火事が多く享保2年1月には小石川馬場から出火し、評定所
他大名・旗本屋敷・町屋を焼き、日本橋・深川まで200余町が焼失したと有り。
○1717年4月22日(享保2年3月11日)
あの将軍吉宗が、武家諸法度を天和の制に戻しました。
★オーストリア継承戦争(1740年〜1748年)の勃発時はどうでしたでしょうか。
オーストリア継承戦争はカール6世が没し(55歳)、マリアテレジアがハプ
スブルク家を相続したために起こった戦争ですが、これは1740年10月
20日(元文5年8月30日)のことです。この時起こった各地の出来事です。
○1740年12月16日(元文5年20月28日)
フリードリッヒ2世が、オーストリア領シュレジエンの併合をオーストリアに
要求し、第1次シュレジエン戦争が始まりました。
○1741年5月8日(寛保元年3月23日)
フランスとバイエルンがニンフェンブルク条約を結び、ザクセン、スペイン、
プロイセンを加えて対オーストリア同盟が成立しました。
○1741年6月25日(寛保元年5月13日)
ハプスブルク家のマリア・テレジアが在位した翌年、ハンガリー女王として戴
冠しました。
★そのほか文化人に目を向ければ。
○1740年6月20日(元文5年5月9日)
サド・マゾという語源の元となった、フランスの作家・サドが誕生しました。
(Sade,Donatien Alphonse Francois de)
○1741年7月28日(寛保元年6月16日)
皆様ご存知のイタリアの作曲家、ヴィヴァルディ(Vivaldi,Antonio)が没した
年でもあります。63歳(誕生:1678/03/04)でした。
○1742年1月14日(寛保元年12月20日)
1682年にハレー彗星を観測し、周期彗星の存在を確認し、1705年にハ
レー彗星の記録を調査して同一彗星が周期的に楕円軌道を描いて再現すること
を確認した。天文学者、エドモンド・ハレー(Halley,Edmond)が没しました。
85歳(誕生:1656年10月29日)
○1743年2月19日(寛保3年1月25日)
イタリアの作曲家ボッケリーニ(Boccherini,Luigi)がルッカに誕生。
○1745年2月18日(延享2年10月18日)
電池を発明するイタリアの物理学者ボルタ(Volta,Alessandro)誕生。
○1746年3月30日(延享3年2月9日)
スペインの画家ゴヤ(Francisco de Goya y Lucientes)誕生。
★日本ではどういった時代だったのか
○1743年7月22日(寛保3年6月2日)
陶工であり絵師であった尾形乾山が没す。81歳(誕生:寛文3(1663))
○1745年1月20日(延享元年12月18日)
日本地図を作成した伊能忠敬誕生しています。
○1747年8月20日(延享4年7月15日)
甘藷先生と呼ばれた青木昆陽が幕府の評定所儒者になる。
ちょっとマニアックな書き方になってしまいましたがマリア・テレジアの時代
に起こった世界の出来事です。次回もこの続きをお話します。
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【オーストリアの街角】 フンデルトワッサーハウス
10月号でも掲載したフンデルトワッサーハウスが今秋二十周年を迎えました。
ウィーンを訪れた観光客が必ず訪れる名所でもあり住民とのトラブルが絶えな
いそうです。観光客からすれば、この住宅はウィーンの市営住宅ということも
あり是非、中を見学したいと住民につめ寄る観光客が多く困っているようです。
住民からすればプライバシーの侵害だし、観光客からすれば建築家ガウデイー
の傑作を見たい欲求にかられるのは当然ですね。9月に住民有志による『フン
デルトワッサーハウス友の会』が企業の協賛を得て二十周年記念イベントを開
き、観光客や地域住民の交流、ドキュメント映像を放映したり、未公開写真を
展示したそうです。建物内に観光客が入れるのは珍しく、Tシャツ、絵葉書の
販売が盛況だったようです。今度からはフンデルトワッサーハウスが見学可能
になれば更なる観光客が押し世せるのではないでしょうか。皆さんもウィーン
に出かけたら、是非お見逃しなく。
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【訪ねてみたい気になるお店】 DEMEL「デメル」
ウィーン王宮前ミヒャエル広場からグラーベン通りへ抜けるコールマルクト
14番地。周りは昔からの高級店が並ぶ通りの一角にあります。
優雅な店構えに季節ごとに変わるショーウインドーは一見の価値があります。
その名はカフェ・コンディトライ「デメル」。あまねくウィーンの菓子屋の頂
点にある存在といってもいいでしょう。ということで、改めて紹介するまでも
ないのですが、ウィーンの菓子屋を紹介するにあたり、「デメル」ははずせま
せんね。皆さんもご存知でしょうが、これからウィーンに行かれる方にプチ情
報です。
店内は大理石とシャンデリアが美しく内装はどっしりとしたシックなサロンで
す、手作りのお菓子とコーヒーを召し上がりながら楽しむウィーンの午後のひ
と時をお楽しみできればウィーンに来た実感が湧くことでしょう。創業220年、
その華麗にして上品な味は、今も世界中のお菓子好きがあこがれています、日
本にも支店がありますが、王宮御用達菓子司「デメル」はウィーンが本店。
その歴史は、1786年にはじまります。 ハプスブルク家史上最大の人物とされ
る女帝マリア・テレジアの死後、長男のヨーゼフ2世が啓蒙君主として統治し
ていたころです。
王宮劇場の真向かいに、ルートヴィッヒ・デーネがロココ様式の店を開いたの
が、そもそものおこりで、1888年に王宮そばの現在の場所に移転しました。
「デメル」で有名な菓子といえば「サッハートルテ」(Sachertorte)ですね。
(ウィーンではザッハとは濁りません)
サッハートルテの誕生には様々な説があります。
オーストリアで語られている「サッハートルテ」の説は1832年、美食家として
も知られるメッテルニヒが、特別な客をもてなすために美味しいお菓子を作る
よう料理人に命じました。料理長が病に伏せていたため、まだ見習いの16歳の
フランツ・サッハにその任務が命じられ、サッハートルテが誕生したといわれて
います。
日本でよく語られる説が、ナポレオン戦争による混乱後のヨーロッパ再建を話
合うため"会議は踊る、されど会議は進まず"といわれたことで有名な「ウィー
ン会議」が1814〜15年の間に開催されました。オーストリアの政治家・宰相の
メッテルニヒ(1773〜1859)が、料理人であるフランツ・サッハー(Franz
Sacher)に会議のための料理を作るよう命じたのです。
そこでフランツ・サッハーはデザートの1つとしてサッハートルテをサービスし、
会議に参列した各国の代表者たちの間で大好評になりました。そこで彼の名前
から「サッハートルテ」という名前がついたのです。
どちらにせよこの美味しいサッハートルテをレストランやカフェで売り出した
ら大変な評判を呼び成功を収めたのです。その後、息子であるエドワード・サ
ッハー(Eduard Sacher)が、オペラ座前に1876年「ホテル・サッハー」を開業しま
した。
数年後サッハホテルが財政難に陥り、ウィーンの王室御用達のケーキ店「デメ
ル」が援助を申し入れ、サッハーホテルの息子とデメルの娘との間で婚姻関係
が結ばれたことから、援助の代わりに秘伝だったサッハートルテのレシピがデ
メルに流れたと言われています。
その後、サッハーホテル側が、サッハートルテの商標をめぐる訴訟をおこし7
年間の裁判の末、ホテル・サッハーのものを「オリジナルのサッハートルテ」
と呼び、デメルのものは、「デメルのサッハートルテ」と呼ぶことになり、こ
の論争を「甘い七年戦争」といわれています。
裁判の結果、デメルのものは、スポンジの表面のみアプリコットジャムが塗ら
れ、チョコレートメタルは「エドワード・サッハートルテ」とかかれた三角の
チョコレートが飾られており、サッハーは丸いチョコレートメタルが飾られて
います。
ウィーンを訪れたらダイエットなど忘れ甘い誘惑に惑わされてください。
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【日本・オーストリア食文化協会】
☆ 神田真吾のオーストリア料理講習会 ☆
去る、10月23日(日)に東京・駒込の香川栄養調理師学校において「神田
真吾のオーストリア料理講習会」が開かれました。講習会は盛況の中、無事終
了しました。
メニューはオーストリア産かぼちゃのスープ
ウィーン風ローストポーク・サワークラウト添え
若鹿の煮込みクヌゥードル添え
デザートは黒ケシのウィーン風シュマーレンでした。
もっとオーストリアを味わって頂こうとオーストリア産の白ワインと赤ワイン
をソムリエの講義を聞きながら本日のメニューを試食しました。昼食にはウイ
ンナー・グーラッシュスープが出され、パンは当協会のメンバーであるオース
トリアのベーカーマイスター「サイラー」氏のセンメルパンが提供され、一日
中オーストリア三昧でした。
☆ 西欧菓子・伊藤屋・国立 ☆
昨年の第2号にて紹介した、東京国立市にある洋菓子店「伊藤屋」のオーナー
シェフ"伊藤公朗"氏がフジテレビの『スイーツSweet』という番組に出る
ことになりました。この番組をご存知の方も多いことと存じますが改めて紹介
します。東京地方はフジテレビ(8チャンネル)にて毎週月曜日22時54分
から放送されています。
http://www.fujitv.co.jp/sweets/index.html
改めまして、「西欧菓子・伊藤屋・国立」の紹介です。
[所在地] 〒186−0004 東京都国立市中1丁目16番地33
[営業時間] 10:00〜20:00
[定休日] 毎週木曜日
[連絡先] Phone 042−577−0121
Fax 042−576−0574
[アクセス] 中央線国立駅下車。南口から大学通りに進み徒歩4分右側。
ケンタッキーフライドチキンとなり。
[URL] http://cake-cake.net/cake/index.phtml?shop=0425770121
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【編集後記】 ==お詫び==
今号から「神田真吾のオーストリア食紀行が始まる予定でしたが、次回に延期
することとなりました。彼の紀行文を楽しみにされていた方も多いことと存じ
ますが次回からは必ず掲載してまいりますのでお許しください。
なお、神田真吾氏の初の著書、「世界のマイスターをめざして」が出版されま
した。彼がオーストリアの料理マイスターを目指した過程や、いろいろな面白
い話が満載です。是非ご購読をお勧めします。定価は1680円です。お近く
の書店で販売しております。なお、書店にない場合はインターネットのアマゾ
ン.comでも購入可能です。(1680円で配送費無料です)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4420310138/qid%3D1130148311/250-47
ナチの「文化遺産」で論争 ウィーン、国民劇場
芸術の都ウィーンで1889年に創設された「国民劇場」に残るナチス・ドイ
ツ時代の「文化遺産」をめぐり論争が起きている。ナチスに併合された歴史を
持つオーストリアではこれまで「被害者」の立場だけが強調され、十分な反省
がなされなかったともいわれ、論争の行方が注目される。
問題になっているのは、同劇場内の「総統(ヒトラー)の部屋」。1938年、
ヒトラー訪問に備え壁板、壁飾りなどが整備されたが、訪問は実現せず、その
後、会議室などに使用されてきた。
論争を引き起こしたのは、9月に同劇場総監督に就任したショッテンベルク氏。
「ヒトラーに敬意を示した部屋の保存は我慢できない」と壁板などすべてを撤
去した。
産経新聞10月22日付け
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