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JOG-mel No.535 打倒された邪馬台国

発行日: 2008/2/10

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■1.洛陽に現れた邪馬台国の正使■

     邪馬台国の卑弥呼からの正使・難升米(なしめ)が魏の都・
    洛陽にたどり着いたのは、西暦239年の夏6月だった。魏の
    大将軍・司馬仲達を翻弄した蜀の名将・諸葛孔明が亡くなった
    のは、その5年前。蜀は、皇帝・劉備玄徳、名将・関羽、張飛
    ら「三国志」の英雄たちを亡くし、今後は四川省の山また山の
    領地を細々と守っていく他はない、と見られていた。

     あとは、孫権率いる江南の呉をいかに叩きつぶすか、が司馬
    仲達に残された課題だった。司馬仲達はまず、孫権と結んで不
    穏な動きをみせている遼東の公孫淵を、自ら4万の軍勢を率い
    て滅ぼした。こうして平定された朝鮮半島と遼東を通って、邪
    馬台国からの正使一行が魏にやって来たのである。

     司馬仲達は、これを大いに喜んだ。邪馬台国については、朝
    鮮半島の出先機関である帯方郡役所から、かなり詳しい情報が
    送られていた。それによると、女王の都のある邪馬台国だけで
    7万戸、人口約50万人。それに服属する約30の国々を合わ
    せると15万戸、120万人に上るという。人口では、公孫淵
    の建てた燕の国の4倍、さらに蜀よりも大きい大国である。

     そんな国が朝鮮半島から南下したあたり、ちょうど、敵国、
    呉の沖合の東シナ海に浮かんでいるという。当時の中国の倭に
    対するイメージは、九州を5倍から10倍くらいに膨らませた
    イモ型の亜大陸が、朝鮮半島の南から台湾のあたりまで南北に
    伸びている、というものであった。そのイメージがそのままヨ
    ーロッパに伝わったらしく、16世紀にオランダで作られた地
    図にも、日本列島はそのように描かれていた。

     そんな東海の大国を味方につければ、呉の孫権に対する戦い
    も一気に有利になる、と司馬仲達は考えた。実は孫権もすでに
    同じ事を考えており、230年には1万人の軍勢を船で東方の
    海に送り出し、倭国から大勢の兵を獲得しようとした。船は台
    湾と見られる土地に着き、そこから住民を連れ帰ってきただけ
    だった。

■2.卑弥呼の狙い■

     司馬仲達ら、魏のトップは邪馬台国からの使いに対して、最
    大限の歓待をした。まず倭の女王・卑弥呼に対して、「親魏倭
    王」の金印を与えた。ちょうど10年前に、魏は蜀を牽制する
    ために、シルクロードの大国・大月氏国に対して、「親魏大月
    氏王」の金印を贈っている。倭国はそれと並ぶ大国という地位
    を与えられたのである。

     さらに大盤の銅鏡を100枚も急ぎ作らせて、1.2メート
    ルの太刀二口とともに贈った。銅鏡や太刀を外国の王に贈ると
    いう例は、中国ではめったになかった。後の「三種の神器」に
    見られるように、倭国は鏡や太刀を尊ぶ、という事を魏は知っ
    ていたのだろう。

     銅鏡100枚という数の多さにも、魏の戦略が込められてい
    た。倭は約30の国家が連合したものであり、卑弥呼はその連
    合国家の象徴的元首である。卑弥呼のもとで各国が一致して、
    魏に従ってくれる事が必要であった。そこで大量の銅鏡を倭国
    に贈り、卑弥呼がそれを各国に下げ渡すことで、倭国連合を強
    化できる、と考えたのであろう。

     一方、魏が遼東を平定した直後に、卑弥呼が使節を送り込ん
    できたのも偶然ではあるまい。蜀に対抗するために、魏は倭国
    連合との接近を図るはずだ、という読みがあったに違いない。
    卑弥呼の戦略は、見事に当たったのである。

■3.200年も前からの臣従の礼■
    
     難升米ら使節の一行が、多くの人に見送られて洛陽を発った
    のは、西暦240年春の事だった。それに同行して、朝鮮半島
    帯方郡の武官・梯儁(ていしゅん)が金印を持参して、倭国に
    赴いた。

     一行は朝鮮半島の南端から船で対馬に渡った。小さいながら
    も港が整備されていて、賑わっていた。梯儁は、このように遠
    く離れた国まで、女王国に服していることに驚きを覚えた。

     一行は、さらに一支国(壱岐)を経由し、倭の本土の末盧国
    (まつら、佐賀県唐津市)に着いた。魏志倭人伝では「四千余
    戸あり、山海に浜(そ)って居す」と記述している。

     次いで伊都国(いとこく、糸島半島)。ここには女王国の検
    問所があった。そこから奴国(ぬこく、博多)に向かう。この
    あたりは古代日本の先進地域で、15万人もの人口を抱え、華
    やかな港湾都市として栄えていた。

     奴国王は、西暦57年に後漢を開いた光武帝に使節を贈り、
    「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印を贈られて
    いる。

     伊都国の王とみられる師升(すいしょう)は、西暦107年
    に後漢の安帝の即位に合わせ、が生口(せいこう、朝廷の召使
    い要員)160人を贈っている。

     北九州の各国は、このように200年も前から、中国に臣従
    の礼をとっていた。倭国連合はこの地域を勢力下に含めていた
    のだが、卑弥呼はこれらの先例に倣って、魏に使節を送ったの
    である。

■4.その南に狗奴国(くなこく)あり■

    「分立する国々の中で、女王国に敵対しているのはどこか」と
    梯儁は聞いた。倭国連合を呉に対する牽制として活用するには、
    国内の敵対勢力についても知っておく必要があった。

    「われわれの最大の敵は、男王を主君にいただく隣の強国であ
    る」と難升米は答えた。
    
         その南に狗奴国(くなこく)あり。男子を王となす。
        女王に属せず。・・・

        倭の女王卑弥呼、狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼
        (ひみくこ)ともとより和せず。

    と魏志倭人伝は伝える。狗奴国とは熊野国と推測される。「く
    まの」の音が中国側に「狗奴」と表記されたのであろう。異民
    族に対しては卑下した漢字を使うのが、中華思想の慣例である。

     そしてこの熊野国こそ、九州日向の地を発って、はるばる大
    和を目指して東征してきた天孫族が建てた国である、というの
    が、[1]の著者・八木荘司氏の説である。

     卑弥弓呼(ひみくこ)とは、熊野国の王が出身地の日向(ひ
    むか)の地名をとって、日向彦(ひむかひこ)と名乗っていた
    からではないか、と言われる。

     この説が正しければ、天孫族は西日本全体を支配下におく卑
    弥呼の倭国連合に属さず、そのすぐ南にあって、邪馬台国と冷
    戦状態にあったことになる。

     もし狗奴国が攻めてきて、邪馬台国が危機に瀕したら、わが
    国が救援の手をさしのべるであろう、と梯儁は言った。卑弥呼
    は魏に臣従することによって、その権威と軍事力を後ろ盾とし
    たのである。

■5.天孫族と邪馬台国の冷戦■

     そもそも卑弥呼が倭国連合の象徴的元首の地位についたのも、
    天孫族の東征が発端となっていたようだ。

     魏志倭人伝に次のような記述がある。

         その国、もとまた男子を以(もっ)て王となす。住(と
        ど)まること7、80年、倭国乱れ、相(あい)攻伐する
        こと歴年、乃(すなわち)ち一女子を共立して王となす。
        名は卑弥呼という。

    「男王」がいた確実な時期として、西暦107年の伊都国王の
    師升とするなら、その7、80年後の西暦180年前後に「倭
    国の大乱」があり、その後に推戴されたのが卑弥呼であった。

     この「倭国の大乱」こそ、後に「神武東征」と呼ばれる戦乱
    であったと八木氏は推測している。「神武東征」を架空の神話
    と考える向きが多いが、それにまつわる伝承や考古学的物証が
    各地に遺されており、その神話のもととなった何らかの歴史的
    事件があったと考えられるのは、[a,b]に述べた通りである。

     これが正しければ、天孫族は西暦180年頃、天下統一を目
    指して、奈良盆地の南半分に進出して熊野国を打ち立てたが、
    それに対抗して共立された卑弥呼率いる倭国連合に阻まれ、西
    暦240年の頃には冷戦状態にあった、ということになる。
    
■6.邪馬台国が魏に救援を求める■

     梯儁は邪馬台国に着き、皇帝からの金印や銅鏡を下げ渡した。
    その答礼として、西暦243年には再び、邪馬台国の使者一行
    が洛陽を訪れている。

     しかし、難升米の懸念はその後、すぐに現実のものとなった。
    西暦245年に狗奴国が邪馬台国に攻撃を仕掛けたのである。
    難升米は直ちに魏の救援を求める使者を、帯方郡に送った。
    
     急を知った梯儁は、邪馬台国からの使者を連れて洛陽に赴き、
    司馬仲達に奏上した。軍略家だった仲達の決断は早かった。難升
    米に対して、皇帝の黄幢(軍旗)を授ける、という公式の詔書
    を発した。邪馬台国の軍は魏皇帝の軍である、という大義名分
    を明らかにして、敵を威圧しようとしたのである。蜀や呉と対
    峙していた魏には、とうてい軍隊を倭国に送る余裕はなかった。

     梯儁と邪馬台国の使者が再び帯方郡に戻った頃、第二の使者
    が駆けつけてきた。狗奴国の攻勢が熾烈を極め、邪馬台国の軍
    は後退を続けているという。「一刻も早く救援を。無理であれ
    ば、大国(魏)の仲介をお願いいたしたい」と難升米は要請し
    てきた。

     古事記、日本書紀には、このあたりの記録が欠落してるが、
    皇室系譜などは残されている。それを頼りに、八木氏は北伐に
    乗り出したのは、第5代孝昭天皇ではないか、と推察している。
    孝昭天皇は南大和の地元の豪族の娘二人を妃としていたが、即
    位後29年も経ってから、尾張の豪族の妹を正妃に迎えている。
    ここから大和王権は倭国連合に属していない東国と結び、背後
    の安全を確保してから、北に攻め込んだ可能性が考えられるの
    である。
    
■7.卑弥呼倒れる■

     魏志倭人伝は、

         張政ら、詔書と黄幢をもたらし、難升米にさずけ、檄を
        つくって告諭す。

    と伝える。帯方郡の武官・張政が西暦247年に皇帝の詔書と
    黄幢を持って邪馬台国に赴き、軍事顧問として狗奴国の攻勢を
    はね返すべく檄をとばした、というのである。

     その危急の最中に卑弥呼が没した。難升米ら邪馬台国の幹部
    は、後継として男王を立てて、倭国連合の新しい元首につけよ
    うとしたが、これが各国の猛反発を呼び、倭国はにわかに争乱
    状態に陥ってしまった。女王という象徴的元首を共立するとい
    う緩やかな連合形態が、男王により実質的な支配に移ることを
    警戒したのである。

     この争乱が始まってから、狗奴国は攻撃をぴたりと止めてい
    た。争乱に乗じて、邪馬台国を乗っ取るような事をすれば、倭
    国連合各国が再び結束して、狗奴国に攻め込んで来るかもしれ
    ない。それよりも今しばらくは各国が相争う事態を静観しなが
    ら、国力の充実に努めた方が良い。狗奴国の指導者は天下統一
    の望みを秘めながらも、そうした冷徹な計算のできる人物だっ
    たようだ。

■8.新しい女王のもとでの治安回復■

     結局、邪馬台国が男王を引っ込め、代わりに卑弥呼の一族の
    少女・壱与(いよ)を新たな女王として立てると、倭国連合各
    国は納得して、争乱は収まった。

     西暦249年、邪馬台国は20人もの使節団に護衛をつけて
    洛陽に送り込み、莫大な真珠、勾玉(まがたま)、織物などの
    貢ぎ物を献上して、新しい女王が無事に政権を引き継いだこと
    を示した。

     西暦266年、司馬仲達の孫の司馬炎が魏の皇帝から帝位を
    奪い、晋の王朝を開くと、邪馬台国はすぐに晋の成立を祝う使
    者を送った。

        晋の起居(皇帝の公的日誌)の注にいう、武帝の泰初2年
        10月に倭の女王、訳を重ねて貢献すると。

     日本書紀が「起居」から引用した記録である。「倭の女王」
    が文献に姿を見せるのは、これが最後であった。
    
■9.歴代天皇が継承した国家統一の志■

     一方、古事記、日本書紀では、邪馬台国の消滅に符合する事
    実が記録されている。第8代孝元天皇は河内(大阪府)の豪族
    の娘を妃に迎えており、天孫族の勢力が女王国の元領地であっ
    た河内に広がった事を窺わせる。

     第9代開花天皇に至って、宮殿は初めて南大和を離れ、奈良
    盆地の北端に移った。そして丹波(兵庫県)の豪族から妃を迎
    えた。

     第10代崇神天皇の時代になると、妃の出身地は、近江(滋
    賀県)、山背(京都府)、紀国(和歌山県)に広がっている。
    こうして邪馬台国が領有していた近畿一円の地は、大和の王権
    に吸収された。中国に臣従し、その権威を借りて国内を治めよ
    うとした邪馬台国は、自主独立の精神を持つ大和王権に屈した
    のである。

     初代神武天皇は、日向の地を発つときに、こう言われたと伝
    えられている。

         東方はまだ国神(くにつかみ)と称する酋長が勢力を争っ
        てさわがしいと聞きます。四方を青い山に囲まれた大和が
        大八島(=日本)の中心です。天照大神の思し召しである、
        この国のすべての人々を安らいで、ゆたかにくらせるよう
        にするには、みやこを大和におくのがよいと思います。
        [a, 2,p10]

     驚くべきは、この初代天皇の志が第10代崇神天皇に至るま
    で脈々と受け継がれ、着々と実行されていったことである。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
    神話にこめられた建国の理想を読む。
   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog074.html
b. JOG(381) 大和の国と邪馬台国
    我が国はいつ、どのように建国されたのか? 
   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog381.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 八木荘司『古代からの伝言 日本建国編』★★★、角川書店
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_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■前号「裁判員制度 〜 国民不在で『司法の民主化』!?」に
  寄せられたおたより

                                       ベンジャミンさんより

     私は以前から裁判員制度に賛成する立場を取っています。理
    由は「一裁判官の思想・信条・経験だけで判決が決められるの
    は我慢がならん。」と思っているからです。はっきり言って
    「考え方が左翼的な」裁判官の信条で、判決が捻じ曲げられた
    と思える事件(例、山形県新庄市のいじめ圧殺事件など)が起
    こっていても、我々一般市民が何もできないことに非常に憤り
    を感じていました。

     以前、弁護士の女性が「痴漢の裁判を傍聴した時に、被告が
    『魅力的な女性だったのでついつい痴漢をしてしまった。』と
    述べた時に、男性の検察、弁護士、裁判官とも納得したように
    頷いていたのを見て、これじゃあ女性が被害になる事件はなく
    ならないと憤慨して司法を志した」と語っている話を読んだこ
    とがあります。性別、職業、経験などでいろんな立場の人間が
    裁判長に意見を述べることができ、裁判に反映できるような方
    式をまずやってみることが大切だと思います。

                                                Kazさんより

    「裁判員制度」の話を読みながら、数年前の「在日外国人参政
    権」のことを思い出しました。

     どちらも、外国や反日勢力が日本を武力侵略することなく、
    実質支配を行うという観点からは、実に有効手段であるという
    ことが共通しております。

     立法権奪取目的の「参政権」と司法権奪取目的の「裁判員制
    度」。日本を外部から支配するという目的ためには極めて、有
    効な手段であると思います。ということは、我が国(日本)にとっ
    ては、極めて危険なことであるということです。

     相変わらず世間(日本以外の世界)は、物騒でありますので、
    日本の指導者層は適切に処置を誤らないことが肝要です。

     また、その指導者層(政治家)を選挙で選ぶ国民一人ひとりの
    良識が必要です。やはり、古人曰く、「一灯照隅、万灯照国」
    ということでしょう。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     Kazさんの言うとおり、国民一人ひとりが、自分たちの問題
    として考えていくことが、健全な政治の実現には不可欠だと思
    います。

     読者からのご意見をお待ちします。以下の投稿欄または本誌
    への返信として、お送り下さい。
     掲載分には、薄謝として本誌総集編を差し上げます。
    http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/jog_res.htm

 
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いつも大変興味深く読ませていただいております。本当に勉強になり、日本の国と人の伝統を嬉しく認識しています。これからも期待しています!!日時:2008年2月10日

いつも、素晴らしい記事をありがとうございます。奈良県とはほど遠い群馬県生まれで、家を宮城県に持ち、現在仕事の関係で兵庫県に単身赴任している私にとって、我が国の古代史に触れることのできる奈良は、非常に魅力のある土地です。既に何度か旅行をしましたが、今回の記事を拝見して益々奈良が身近に感じられ、また歴史をもっと勉強したいと思うようになりました。日時:2008年2月10日


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