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■□ 渡部亮次郎の □■ ─────────── 2004/09/12 ■□
□■ メールマガジン■□ ───────────────────□■
頂 門 の 一 針
Vol.38
夏から秋への憂鬱・中国:渡部亮次郎
山堂コラム 28:ぼんくら政治 ?
黒い幽霊船団:石澤武義
小林観爾の「花と蝶」について:馬場伯明
話 の 耳 袋
反 響
中国ウオッチング
身辺雑記:主宰者
□■■□ ─────────────────────────── □■
第38号 発行周期 不定期(原則日曜日発行)
御意見・御感想は chomon@fsinet.or.jp
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夏から秋への憂鬱・中国
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渡部 亮次郎 03.09.07
32年前の田中訪中同行取材のことを思い出している。さらにその6年後は
外相秘書官に転じ、日中平和友好条約の署名調印に立会い、ODA供与を開
始した。ところが日中関係は本質的に悪くなっている。 「日中友好」
「熱烈歓迎」のムードは幻と消えた。
?小平に言いつけられた経済の開放改革路線を歩ませれば、人民はやがて
共産党を批判し始める、その時に日本を仮想敵国にしてガス抜きをしなけ
ればならない、と決意した江沢民の日本敵視教育が果たした「成果」であ
る。
その結果のサッカーのブーイングであり、特に若い層のいわれ無き敵対的
態度である。1972年9月25日、就任間もない首相田中角栄が「決死の覚悟」
で国交回復を成し遂げた時、田中も周恩来も今日を予想は絶対していなか
った。当時、幽閉されていた?小平が出てきて開放改革を始めてから日中
の歯車は狂い出した。
その?小平の相手をし、日中平和友好条約を締結したのが福田内閣の外務
大臣園田直(そのだすなお)である。この条約によって日中間の関係は
「鉄の橋」になったと、時の福田首相は喜んでみせた。だから秘書官とし
て園田外務大臣の鞄持ちをした私も少しは世界平和に貢献する手伝いをし
たのか、と自惚れたが、違っていたようだ。
田中角栄が政権を獲ったのは日本列島改造論に従って日本全土にブルドー
ザーをかけるためと思われているが、田中の本心は、それは追々やるとし
て、焦眉の急は中国との国交回復だった。この問題について長い事、自民
党内では是とするものは左、否とするものは主流とされていた。
誠に歴史に予測は付け難い。もともと公明党首脳が「中国は戦後賠償を1
銭も要求しない」との伝言を持ち帰ったとき、田中内閣はかえって慎重で
あるべきだったかもしれない。「この裏に隠された意図はなにか」と。し
かしアメリカのニクソン大統領に頭越しに訪中を先んじられて国民の不満
は高まり、佐藤首相は引退を余儀なくされた。
マスコミは「日中友好万歳」で踊ってしまっては国益の検討も何もあった
ものではなかった。実際、アメリカは日本に先んじて大統領が訪中した事
は事実だが、国交を正常化したのは日本に遅れること7年後であった。
もちろん、この時間はニクソン大統領のウオーターゲート事件による辞任
と言う大事件があったことにも依るが、台湾との断交を実質的に回避する
と言う大成果をあげている。 田中・周恩来による共同声明では日中間で
平和友好条約をすぐにでも締結するように書いてある。
ところが日ソ関係の強化を恐れる中国は、この条約締結交渉を利用して日
ソの離反を図ろうとした。そのことから日中間のハードルが日に日に高く
なり、田中、三木内閣はお手上げとなっていた。福田政権になったとき、
中国では共産革命の指導者毛沢東主席、周恩来首相がこの世を去り、?小
平が指導者として復活していた。
この復活こそは経済の開放改革路線への転換であり、政治共産主義、経済
資本主義への始まりの合図だったが、わが外務省はそれを見逃した。今で
はよく知られているが、毛沢東の教条主義に対して?小平は常に現実主義
者であった。
彼は毛沢東政権下で3度も失脚しているが、その総てに共通する原因は
「白でも黒でも鼠を獲る猫がいい猫」という現実主義である。常に時の保
守派から叩かれて幽閉された。
しかし、すべての面で「近代化(現代化)」の必要に迫られていた中国共
産党は最終的に?小平に屈したのであった。一方、田中内閣は共同声明に
サインはしたものの肝腎の日中平和友好条約の締結を前にソビエト(当時)
の牽制に直面して交渉のテーブルに就く事さえ出来なかった。
続く三木内閣もソビエトに気兼ねしたいわゆる第3国条項でデッドロック
に乗り上げて交渉を中断したままだった。福田内閣になって1年目を官房
長官として送った園田直は外務大臣に「飛ばされ」ての就任ではあったが、
日中平和友好条約の締結を政治家としての起死回生策と考えて策を練って
いた。そこへ秘書官としてNHKから呼ばれたのが私であった。
園田外務大臣が秘密裏に取った手段は黒子を派遣しての独自の中国情勢把
握である。中国で生まれ育った青年が剣道仲間に居たのを幸い、彼を確か14
度も北京に行かせて情報を蒐集した。それは北京の日本大使館から入って
くる情報とはまったく別で、「とにかく園田さんが来てくれさえすれば恥
はかかせない」というものだった。
あとで考えれば、確実に?小平から発せられたサインであった。園田
外相はこれに何の疑念を挟まずにまさに突っ走った、と言うよりない。福
田首相の命令がないうちに北京へのチャター機を日本航空に予約した。私
にもそれにブレーキをかける知識も智恵も力も無かった。
?小平にすれば日中平和友好条約によって入ってくる日本の資金こそが、
意図する開放改革経済のカギであるから、条約上の少々の文言の譲歩など
なんでもなかったのだろう。実は平和友好条約について中国は、この条約
の有功期限を当初は「1年」と言ってきた。迎賓館で待機していた園田大
臣は烈火のごとくに怒り、そぐ帰国すると言い出した。それで中国も「10
年」としてきた経緯がある。まんまと嵌ったわけである。
産経新聞が8日の紙面で伝える所に依れば<中国共産党は16日から4日間
北京で16期中央委員会第4回総会(4中総会)を開催し主議題の「執政能
力建設」について審議する。
これをめぐっては、指導体制などの抜本改革を主張する胡錦濤総書記(国
家主席)に対して、江沢民中央軍事委員会主席(前総書記)ら上海グルー
プを中心に強い抵抗があり、特に江沢民主席は辞任の可能性も示唆しつつ
改革案の大幅修正を要求したと言う。中国筋は「党内の権力闘争は激しい」
と述べた>というが。
いずれにしろ中国政府にとっては今もまだ日本は利用価値がある。だから
日中友好を謳ってはいるが、国内の貧富の格差拡大に伴う人民の不満の捌
け口としての敵役リーベン(日本)はさらに価値を増しているのである。
誠に私にとって、8月から9月は中国関係を想起させられる憂鬱な季節なの
である。(了)(文中敬称略)
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山堂コラム 28:ぼんくら政治 ?
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世襲政治家が増えている。
なぜ政治家が世襲職業になるのか。選挙にカネがかかること。それに小
選挙区制度の導入が拍車をかけた。
世襲議員が増えたということは、社会構造が固定化・硬直化した表れで
ある。「毛並みがいい」、「手堅い」、「間違いない」などと人は言う。
なあに「オベンチャラ」だ。「オベンチャラ」しか言えなくなっているこ
と自体、すでに社会が硬直化した証しである。
江戸時代は将軍から百姓までずっと世襲であった。日本全体が鎖国で閉鎖
社会。諸外国との競争や戦争はないから300年続いた。でも「黒船」が来
航すると世襲では持たない。世襲の為政者では難局は乗り切れない。
つまり、世襲が続くということは、硬直化と同時に平和だということでも
ある。わが国では、政治家と並んで世襲職業の代表といえば「医者」だっ
た。お座敷かかればすぐ出なければならない「医者」「記者」「芸者」の
うち、圧倒的な世襲率を誇っていた医者だが、最近では政治家にお株を奪
われてしまった。
医者が、「親が医者だから」という理由だけで後を継ぐとどうなるか。
「盲腸」と「脱腸」、「扁桃腺」と「前立腺」の区別がつかない。大腸癌
をただの便秘に見立ててしまう。アルツハイマーも二日酔いもアル中も一
緒くた。医者自身が「アル中ハイマー」で手術中にメスが震えるなどとい
うことも、一昔前には珍しくなかった。
いまは駄目。「カルテ開示だ」「インフォームド・コンセントだ」と騒が
しくなって、「医療ミス」や「誤魔化し」の隠蔽は許されない。ひと昔前
なら、左の腎臓と間違えて右の腎臓を取っちまっても、「あっ、間違えた。
左でもまだ持ってるムニャムニャ」で済んだ。今はこんな医者は即逮捕だ
からいない。世襲医者でも、なかには優秀な者はいるわけだが、ただ医者
の世襲率は目に見えて低下している。
政治家の場合は逆だ。永田町には「カルテ開示」も「インフォームド・コ
ンセント」もない。大新聞や放送局は、政治家のパフォーマンスは伝えて
も「カルテ」は開示しない。だから増える。
でもオラはいま、永田町で世襲政治家が増えていることを憂えてはいない。
天下泰平、彼らは言ってることもやってることも至極まとも。冒頭のよう
に「毛並みがよく」、「手堅く」、「ワケ知り」である。
暴走しそうな者は1人も見当たらない。あっと驚くようなのは、あっ、少
しハズレている真紀子はいるが、それ以外は信二、康夫、俊一、弘文、晋
三、耕輔、昭一、雄哉、喜美、禎一、由紀夫、一郎、孝弘、五月、これで
もか、これでもか・・・・・・優子ちゃんだって泰子ちゃんだって、親父
よりはよほどまともである。安心だ。面白くはないけど。
世襲政治で政治家の質が劣化すると、世襲でない政治家の質までつられ
て劣化する。1人区でボンクラ議員を押さえて出て来られる新人は、「超
人的大英雄」か「世襲にさえ及ばない粗悪品」のどちらかだ。後者の方が
圧倒的に多いこと言うまでもないが、時に前者の「とんでもない変種」が
現れる、この時こそが要注意。突然変異の大英雄、カエサルもナポレオン
もヒトラーもスターリンも、出現してくる時は、いずれも国家存亡の風雲
急を告げる時。
わが国ならば北朝鮮、いやロシアや中国と構える時。怖い。
でも安心しよう。今のアメリカ大統領も永田町のボンボンも、世襲である
ことの枠にはめられてしまっている。独裁者になる器ではない。とんでも
ない暴走暴虐するタマはいない。世襲の方がまあましだなと思うのはそう
いう時である。(ぼんくら政治 ? に続く)
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黒い幽霊船団
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石澤 武義
薄暗いと言うよりは黒い色が連想されるのが1960年代のニューヨーク地下
鉄であるが、黒い色にまつわるニューヨーク60年代の驚異的な光景がもう
1つある。題して「黒い幽霊船団」。
ニューヨーク市のマンハッタン島は東側がイーストリバー、北側がハーレ
ムリバー、西側がハドソンリバー、そして南はニューヨーク湾に囲まれて
いる。マンハッタン西北部に架かるジョージ・ワシントンブリッジを渡る
とニュージャージー州に入る。
さらにハドソンリバーに沿ってニューヨーク市(ブロンクス区)を対岸に
見ながら北に走る。自動車の窓越しに時々河岸の木立の間や、岩石の間か
ら見える美しい河の眺めに見とれながら走る事40分。と突如、河の全面を
被う異様な光景に目を奪われるのである。
川全面〈と言っても川幅は想像以上に広い〉に数え切れないほど沢山の錆
びた黒い艦船の集団が敷きつめられた様に繋留されている。自動車で走り
ながら見て行っても、まだかまだかと思う程の距離をこの繋留船群の行列
が続く。
それも1列や2列ではない。向こうの端の列が黒く霞んで見えない程の広
い船列である。何百艘か何千艘か河岸からはとても数え切れない.見たと
ころ殆どが5〜6千トン級から1万トン級までの船である。
シーンと静まり返った黒いマストの林,色あせた無数の船腹にヒタヒタと
小さく打ち寄せる河の波に揺れる船影と低い波の音、甲板から何かが動き
出して来そうな不気味な空気の漂い.何だか異様な霊気に包まれている様
な雰囲気である。「船の墓場」。咄嗟に思い浮かんだ印象である。
時々、ずっと奥の方でなにか幽(かす)かな音がしたような気がしたが、
或いは空耳だったかも知れない。自分が吸い込まれて行くような気味の悪
さである。
第2次世界大戦中にアメリカは沢山のリバテイー船やビクトリータイプの
輸送船やタンカーを造って就航させた。連合軍の輸送、補給作戦を一手に
引き受けて、軍艦や航空機の優位と共に輸送戦力を誇り、連合軍をリード
したのである。
戦争が終って、役目を終えたこれら輸送戦力はアメリカに持ち帰られた。
又何時か一朝事ある場合は再就航させることにして、平時は特定の場所に
繋ぎ置かれる事になったのである。ハドソンリバー(ニューヨーク州)、
ノーフォーク(バージニア州)、シアトル〈西部のワシントン州〉の3ヶ
所である。
ハドソンリバーに繋留された船だけでも5〜6百隻以上と推定されるが、
当時の資料〈1965年8月1日現在〉によると、3ヶ所の総合計が15
75隻。内訳は以下の通り。
?リバテイー及びビクトリータイプの貨物船――――−―――1156隻
?タンカー ――――――――――――――――――――――――68隻
?コンビネーション船舶〈軍隊並びに貨物の混載輸送〉――――203隻
?タグボート及び小型船舶-―――――――――――――――― 148隻
これを解体してスクラップにしたらどの位の量になるだろうか、否、まだ
まだ就航可能だろうから、発展途上国に援助または低価格で供与したら世
界の海運業にどんな影響が出るだろうかなど、色々考えさせられたもので
ある。
これから20年後の80年代半ばにも此処を訪れたが、やはり同じ状態で森閑
として不気味な光景は変ってなかった。その後どうなったかご存知の方が
あればこのメルマガ紙上ででもお知らせ頂ければ幸いである。
農作物の大豊作でアメリカが余剰穀物の処理に悩まされた時期があるが,
その時はこの繋留船団を貯蔵倉庫に転用した事もある。然しながら、必要
事態が起きれば又軍事に動かす事になっていたのだろう。「MARITI
ME ADMINISTRATION OF COMMERCE〈商務省
船舶管理局とでも言うか〉」と言う役所が確かりと管理し、ある程度の保
全も行っていた様である。
事実、ベトナム戦争がエスカレートして50万人を超えるアメリカ軍兵士が
投入された時は、この幽霊船団の一部が解放され、整備されて再就航させ
られたそうだから、あながち、この繋留も無意味ではなかったのである。
見方を変えれば,功成り名を遂げ老後を静かに送り生涯を閉じる日を待つ
高齢者の集団の様にも見える。他人眼(ひとめ)に着かぬ場所で密かに生
涯を閉じると言われる象の秘密の墓場を覗き見た感じがして無常を禁じ得
なかった。
あれから40年〈私が最後に見たのは20年前〉経った今、あの巨大船団はど
んな経過を経て、どんな処分をされ、何処へ行ったかは知らない。未だそ
の侭かも知れないし、大西洋に曳航して海底に沈めて魚類の生息環境の助
けになって居るのかも知れない。
曳航されて行く光景を想像してみた。数え切れない黒い船列が解き放たれ
て、のろのろとハドソンリバーを降っていく景色を想像するだけでも気が
遠くなる。船と船との間隔を空けねばならないから恐らくこの船列はハド
ソンリバーからニューヨーク湾に溢れ、さらに大西洋にはみ出して長いな
がい列が無限の彼方に消えて行くように続くだろう。
しかも黒く気味悪い幽霊船の隊列という幻想が重なるのだから身震いを覚
える。如何にもアメリカらしい桁外れに規模の大きい不気味な光景と言え
ないだろうか。(いしざわ たけよし 東京都在住)
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小林観爾の「花と蝶」について
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馬場伯明(2004-9-8)
平成16年(2004)は小林観爾(長崎県島原半島深江町生れ1892
〜1974)の没後30周年にあたる。
大正14年(1925)、観爾の作品「芍薬(しゃくやく)」は、第5回
帝展特選となり、花鳥画随一と評された。豪華、絢爛で、上品な芍薬の花
の群生を、少し見上げるような角度から下部に配し、その上に大きく広が
る空を描いた大胆な構図である。花のまわりでモンシロチョウが乱舞して
いる。右手の上空にはつがいのクロアゲハが愛のエールを送っている。5
月の風は芍薬の花弁をおだやかに揺らしている。観る者の心をなごませる
傑作である。
観爾は、明治25年(1892)、長崎県島原半島の深江村に生れ、育っ
た。京都へ出て絵を学んだが、ふるさとの深江の蝶を絵に描き込んでいる。
少年の日、野山を走り、段々畑を飛び降りながら、花を巡り飛翔する蝶を
追いかけたのであろう。アゲハ、キアゲハ、モンシロチョウ、モンキチョ
ウ、そして、クロアゲハなどである。とくに、クロアゲハは観爾がこだわ
って描いたと思われ、8つの作品に登場している。
クロアゲハの幼虫は山椒(さんしょう)や蜜柑(みかん)などの植物の葉
を食べて大きくなり、蛹となり、越冬する。春から夏にかけて羽化しチョ
ウ(蝶・成虫)になる。墨を流したような漆黒の前ばね・後ばねを持ち、
後ろばねの外縁部に三日月形の数個の朱色の斑紋がある。後ばねの先にあ
る尾(尾状突起)はカラスアゲハなどのものより短い。
観爾の絵の中のクロアゲハは絶妙に描かれ、配置されている。飛翔の瞬間
を切り取った生き生きとした軽妙なデッサンである。尾を実際より長く描
くことによって舞う動きを強調している。また、重厚な蝶であるクロアゲ
ハを一筆書きのように単純化している。蝶を見上げる構図を多用し、自由
のままに飛翔する蝶へのあこがれを表現している。
「自己顕示欲の強い洒落者」(「虫の文化誌」小西正泰)である蝶、蝶は
美しい花をめざし、巡るので、花卉の絵の添景としてふさわしい画材であ
る。「蝶よ花よと・・」という言い回しもあるように、蝶は古くから人に
いとしまれ、多くの絵画や工芸品などにも取り入れられている。明治浪漫
主義を象徴すると言われ、蝶を愛でた藤島武二(1867〜1943)の
作品「蝶」には装飾の美と甘美な詩情があふれている。
これとは対照的に、観爾の描く蝶には単純化された刹那的な凄さと清冽な
美がある。だが、観爾は、美しい芍薬や牡丹の花の上を舞うクロアゲハに
自分を擬し、上空から自分の絵の花をなつかしく眺めている。少年の日の
記憶の中で、翔び、舞うクロアゲハの幻影を追いかけているのかもしれな
い。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と世界ヘビー級チャンピオンのカシ
アス・クレイは言った。「蝶のように」とは、相手に束縛されることなく
自由に、気ままにという意味である。観爾は、自分が蝶になり、自由な空
へ翔び立つのを楽しんでいるようである。
また、「貴方に抱かれて私は蝶になる」と若い森山加代子は歌った。貴方
は美しい花であり、怖いクモの網かもしれない。彼女はわかっていながら、
花から花へと身を委ねる蝶なのである。蝶になった観爾は、芍薬から牡丹
(ぼたん)へ、芙蓉(ふよう)から葵(あおい)や菜の花へと楽しい移り
気な旅をしている。
私は、観爾と同じ島原半島の生まれで、次男の小林忠彦氏とは友人である。
幼い頃私も無心に蝶を追いかけた思い出があるが、自分より50年以上も
前に生れた観爾を直接には知らない。しかし、芍薬、牡丹、芙蓉、菜の花
などの上を華麗に舞う蝶や花と無邪気にじゃれあう蝶の絵を観ていると、
ふるさとの花と蝶を愛し表現した観爾の心情に近づけるような気がしてく
る。
(ばば のりあき 千葉市在住)
(参考資料):省略しています
「蝶」(1904) 油彩 藤島武二
「蝶供養帖」より 水彩 藤島武二
蝶の描かれた小林観爾作品と蝶の写真
「モンキアゲハを追いかけて」 馬場伯明
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話 の 耳 袋
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1)
塩害で収量は平年の1、2割に/JA秋田しんせいが試し刈り
JA秋田しんせい(本所・本荘市)は6日、台風15号の水稲被害などを
把握しようと象潟、金浦両町で行った試し刈りの結果を明らかにした。1
0アール当たりの収量は象潟町が73キロ、金浦町が134キロと、平年
の1―2割程度。しかも品質が悪く、水稲共済の補償単価よりも大幅に安
い「規格外」になる見込み。
同JAによると、今回収穫したもみには青未熟粒や白濁した「死に米」が
多く混在。整粒歩合は両町とも15%以下と、3等米(同45%以上)に
も及ばなかった。規格外のコメの取引価格は例年、1キロ当たり70―8
0円程度という。
同JA営農経済部は「収穫できても売れないコメ。自然災害ということ
を前提に、品質も評価してもらうよう、国などに働き掛けていきたい」と
話している。 (秋田魁Web 2004/09/07 10:54)
2)音が聞き取りやすいラジオ/日本ビクター日本ビクターは、音声が
聞き取りやすいラジオ「TV/FM/AMラジオ(RA−BF3)」を発
売した。音声の速度を話し始めは遅くし、徐々に元に戻す話速変換の機能
で、ニュースのアナウンスなどがゆっくり聞こえる。また、小さい音は大
きく、大きい音は小さくする音域補正の機能で、はっきり聞き取れるとい
う。2万1000円前後。(秋田魁Web 2004/09/08 14:04)
3)■明石 榮一
氏(あかし・えいいち=明石康氏の兄) 5日午後2時、敗血症のため比
内町の病院で死去、84歳。自宅は同町扇田字中扇田35の2。葬儀は9
日午後1時から同町扇田字南扇田13、長泉寺で。喪主は長男敏男(とし
お)氏。
平成4年まで旧扇田町議、比内町議を通算8期。元国連事務次長の明石
康氏の兄。
4)和歌山県古座川町での話。日本ミツバチの蜜を集める「ごうら」を
壊す犯人は熊とばかり思い込んでいたら、そうではなく、猪だった。自働
撮影カメラに写っていた。狩猟歴45年のベテランは「猪が蜂蜜を食うなん
て古老も知らない、まさに前代未聞」と言っている。(紀伊民報=田辺市。
8日付け)
5)今年はキノコの当たり年?
9日、秋田市の太平山で1本のミズナラの根元に群生していた2、30キ
ロものマイタケを採った男性が現れた。相次ぐ台風などによりキノコの生
育に合った気象条件がそろったとする説もあり、青果店に持ち込まれるキ
ノコも例年になく多い。秋の味覚がぐっと身近になる可能性は高い。
大量のマイタケを採ったのは、同市の会社員(49)。太平山の旭又登山
口から30分ほど上った登山道で矢源沢の急斜面に、こんもりと盛り上が
ったマイタケを見付けた。同市の青果店によると、小売価格にして10万
―15万円相当。
「秋田のきのこと山菜」(秋田魁新報社刊)などの著者・畠山陽一さん
(71)=同市仁井田=は、「キノコは夏と秋の温度差が大きいほど豊作
になる。今年は夏の猛暑や相次ぐ台風など例年にない気象だったが、秋田
市とその周辺などでは生育に適した気象条件になったのだろう」と語る。
また、「あきた 山菜 キノコの四季」(同)を著した永田賢之助さん
(70)=同市上新城=は「台風が来た年は土の中深くまで空気がゆき渡
り、マツタケやアミタケなどが豊作になる」と分析しており、山の出来秋
に期待は膨らむ。(秋田魁Web 2004/09/10 09:52)
6)『文芸春秋』特別版 の 拙稿 「大和の闇」お目にとまり、光栄です。
誠に有り難う御座いました。
かすがのに おしてるつきの ほがらかに あきの ゆふ
べと なりにけるかも
会津八一
古都 奈良も、このような、おおらかで、ゆったりとした夜の風情はなく
なりました。安っぽい照明で古社寺の建物ををライトアップして、観光客
誘致などといっています。
夜、暗いから星が見える、星を眺めることが出来るから、自分は宇宙の中
の 地球という小さな惑星に存在していることがわかる。都会は明るすぎ
て、夜空の星が見えません。ですから、自分を見失っているのですが、そ
れに気がつきません。自分を見失っているから途方もない、嘆かわしいこ
とを、しでかすのでしょう。
自然の闇は 大切です。拙稿を読んで、《「大和の闇」は 、今生きる人間
にとって文化財だ。努めて 保存すべきだ》 といってくれた友人もいまし
た。太田信隆(龍谷大学客員教授)
━━━━━
反 響
━━━━━
1)江沢民の動向こそ最大のニュースです。朝日など軽い扱いですが、変化
の兆しに間違いありません。速報されるご見識に改めて政治記者の魂を感
じます。
加瀬説もなるほどと感心しました。モスクワ五輪のときの大平(首相)と
河野の爺さん(参院議長)のやりとりを思い出しました。
やはり時代の変動は世界的なものですね、誰が抗ってもどうしようもない
と思います。江沢民は流れに大衆という流れに飲まれます。
中国とどうしていくのか、もう少し展望を描かないと歴史を繰り返すどこ
ろか、溺れてしまいますね(小泉首相は)暢気に南米へ行ったり〒騒ぎに
踊る時ではありません。問題を直視したい。その先を見てみたいですね。
(一)
2)テレビでも大きく報道され、週刊新潮など週刊誌にも出ていたが、
今回のNHKの諸々の不祥事の責任は海老沢会長にあると思われ、発表され
た処分と改善計画の内容では世間の納得が得られないのではないでしょう
か。この機会に会長が辞任し、新しい人事体制で再出発しない限り、遠く
ない時期に又同様な事件が起こるような気がします。
小沢一郎という政治家は今何を考えているのか、国民の幸せのために、日
本をどう導こうとしているのか、民主党が政権を取ろうとするならば、な
ぜ岡田代表に全面的に協力しないのか、不可解ですね。
岡田さんから頼まれて一旦引き受けた代表の座を、年金未納問題を理由に
辞退し岡田さんを代表にしたのは何だったのか。自分が代表になって先の
参議院選挙に勝っていればどうだったのか。
素人の私にはよく分かりませんが、今の岡田さんに焼きもちを焼いている
ようにも見えます。小泉・小沢の対決場面も期待していたこともあっただ
けに、最近の小沢さんの行動には理解しがたいことが多すぎます。我々庶
民にもっと分かりやすくしてほしいですね。
「山堂コラム27」については全く同感です。この問題は政・官・民で十分
議論して結論をだして貰いたいと思います。
馬場伯明さんの「山本穣の野球人生」を読んで、今回も馬場さんの思いや
りの深さを感じました。(峯)
━━━━━━━━━
中国ウオッチング
━━━━━━━━━
『善隣』2004年9月号 転載承諾済み
(上松玲子訳)
2極化する都市
最近の取材の中で、天津の農民労働者たちは一様に都市の人々との交流が
ないことに悩み、本当の意味で都市に受け入れられていないと感じている
ことがわかった。
都市の市民と農村から来た人というくくり方で、1つの都市の中に2つの
社会が存在するという現象が深刻化している。今年39歳の馮俊岩さんは
安徽省太和県の出身で、1994年に妻を連れて天津に新しい生活を求め
てやってきた。
くず拾いから始め、野菜売りや果物売りをして、今では多少の蓄えもあり、
2台のトラックも持っている。10歳の息子も天津で就学し、どちらかと
いえば成功したといえるだろう。しかし、この10年間、天津の人とは1人
も友だちになっていない。
俗に、家を出たら友が頼り、というように、彼も多くの友人に支えられ頑
張ってきた。彼らは安徽省の同郷であったり、その他の地域から天津に働
きに来た者たちであったが、つまり皆「同類の者」だけであり、都会の友
だちはいなかった。
交流したくなかったわけではない。努力もしてみたが、結局都会人は彼ら
を軽視している。力仕事がある時は思い出して、満面の笑みで迎えても、
仕事が済めば用済み。踵を返して去って行く。
都市や都市の人々を前にして、農村出身者たちは行き場のなさを共通して
感じている。「我々の子供の多くが天津で就学している。いつか自分たち
が天津にいられなくなる日が来たら、子供はどうなるのだろう。
故郷に帰っても適応できるわけがない。結局何とか手立てを考えて天津に
住み続けるほかにない。」都会の人は我々を見下しているが、我々は都市
にとって欠くことのできない一要素である、都会人は我々なしに生活でき
ない。もし、我々が全て故郷に帰ってしまったら都市は正常に機能しない
であろう。
今や我々は都市の風景としても機能としても完全に都市と一体であり、我
々が少し進めば、都市は大きく進む。毎日のように都市化の促進と都市部
と地方の格差の縮小が叫ばれる中、農民労働者が「曹操の軍営にありなが
ら、心は漢にある」ような心境に長期にわたって置かれていることは非常
に不利なことではないだろうか。(『新華毎日電訊』2004年7月26日)
副業に忙しい大学生
ハルビン市の大学では営利活動に熱心な学生が増えている。
ある芸術学院の学生は言う。僕は農村の出身で入学1年目は学費も生活費
も親が高利で借りた金だった。
僕は3人の大学の友人とバンドを組み、結婚式での演奏を専門に始めたと
ころ、今では休日のたびに6件から7件の仕事が入り、月5千元は稼げる
ようになった。ある大学年生の話だ。
彼のクラスにはいつも授業をさぼり働きに行く学生がいた。英語は4級す
らとれなかった。しかし結局誰よりも給料の良い就職先を見つけたのは彼
だ。採用した側の言い分はというと、成績よりも経験が物を言うというの
だ。
このことはさらに多くの学生が営利活動に励む一因となった。黒龍江省社
会科学院社会学研究員の趙氏は「学生商人」の出現は悲しいことだと語っ
た。 (『中国改革報』2004年7月23日)
なぜ回族に多い100歳
中国の100歳以上の老人は人口100万人あたり平均5人である。しかし、
全人口570余万人の寧夏回族自治区には実に77人もの百歳老人がいる。
そのうち50人が回族である。回族の老人が長寿であるのは、その独特な
生活習慣と関係がある。回族の民間に伝わる養生訓でも「回族が長寿なの
は、節食と喫茶とあっさりとした食事」と言われている。
回族老人の生活はとても紀律正しく、毎日の食事の量や飲み物の量、摂取
する時間はきちんと決められている。呉忠市馬蓮渠郷の102歳の老人、
楊生蘭さんは、「私は偏食したことはありません。量も少ないし、粗食で
す。」と言う。
回族の老人は夜食をほとんど取らない。夜食を控えれば99歳まで生きる
と言われている。これは消化能力が弱く、足腰が衰えた老人にはとても重
要なことだ。回族はお茶好きな民族だ。「三香茶」「白四品」「紅四品」
などを楽しむ。
飲める人は「五珍茶」や「八宝覆碗茶」も楽しみ、冬には「羊骨髄茶」
「クコなつめ茶」などで力を養い、衰えを抑える。各種の銘茶に配合され
ているのは、クコ、ナツメ、ゴマ、クルミ、干し葡萄、竜眼、ドライフル
ーツなどである。その他回族が飲酒や喫煙を禁じていることも健康維持に
つながっているのだ。(『人民日報・海外版』2004年7月19日)
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身辺雑記:主宰者
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パソコンの師匠(これは死語か、パソコンに出てこない)ご一家が夏休み
で一時帰国された。しかしご都合で多忙な休み?となり、指導も懇談もま
まならないまま10日には帰任された。こちらは心残りな夏休みであった。
10日午後7時から渋谷駅近くのふぐ屋でBK東郷会が開かれ、長野県からも
参加者があった。1970年代、NHKの大阪放送局(JOBK)で東郷勤報道部長
の下、ニュース報道に携った男たちの集まり。新人だった男もいまや経済
部長というから、参加者12人の殆んどはOBである。
席上、網代氏からカメラマン稲井繁夫氏が暑い盛りに癌のため逝去された
事が紹介された。稲井さんは2000年に俊子夫人に先立たれた後、1人暮ら
しをされていた。近年は会うこともなかったが、九段下の日米文化振興会
のころはよく立ち寄ってくれたものだ。そういえば同じカメラマンの樋熊
浩明氏も今年亡くなった。合掌。
BK会の出席者、順不同。立川秀明、冨樫隆輔、垂木昌三、大田圭彦、網代
守男、渡部亮次郎、城取俊昭、東郷勤、吉国浩二、五十嵐公利、坂本克己、
山形良樹。近況を語って楽しくお開きになった。次回は中央区新富町とい
う旧い花街の料亭で忘年会として12月初旬に会うことにした。
久しぶりで中野区の鮫島稔ご一家と夕食を共にした。長男高2、長女中2。
先日進学したばかりと思い込んでいたのに、もう2年生とは。鮫島さんは
クレーマークレーマーで生活一切を男手一つで賄っている。早朝おきて弁
当づくりから始める。彼自身持病を抱えての生活戦闘には頭が下がる。日
ごと大人びてゆく子供の成長を褒められるのが唯一、嬉しそうに見えた。
ご感想、ご投稿をお待ちしています。次回配信予定は19日早朝。
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