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「日本史なんて怖くない」

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「日本史なんて怖くない」中世文学

発行日: 2006/7/28

☆                                 ★

 「日本史なんて怖くない」 2006年07月28日発行 第 681号

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■ 今回の内容 ■
┃中世文学
┃本日のノート
○中世文学
 ・和歌…『新古今和歌集』、西行の『山家集』、源実朝の『金槐和歌集』

 ・軍記物語…『平家物語』−琵琶法師の平曲
       『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』など

 ・説話集…『宇治拾遺物語』『十訓抄』『古今著聞集』『沙石集』

 ・随筆…鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』

 ・歴史書…慈円の『愚管抄』−道理と末法思想から歴史を見た
      『水鏡』『吾妻鏡』、虎関師錬の『元亨釈書』

 ・学問…有職故実−順徳天皇の『禁秘抄』
     古典研究−仙覚の『万葉集註釈』、卜部兼方の『釈日本紀』
     金沢文庫(北条実時)
     宋学伝来…大義名分論が討幕運動の理論的なよりどころになる


┃文章
 和歌の分野では、後鳥羽{ごとば}上皇が藤原定家{ふじわらのていか/さ
だいえ}らに命じて8番目の勅撰{ちょくせん}和歌集『新古今和歌集{しん
こきんわかしゅう}』を編集した。西行{さいぎょう}、式子{しょくし}内
親王、寂蓮法師{じゃくれんほうし}らの歌約1980首が収められている。洗練
された表現による気分の象徴や体言止{たいげんど}め、三句切れ、情緒{じ
ょうしょ}・技巧に富む本歌{ほんか}を取って作る本歌取りなどの特徴は新
古今調{しんこきんちょう}と呼ばれる。

  <注1>後鳥羽上皇は、承久の乱後に隠岐に流された時、『新古今和歌
      集』を持参して自ら校訂を加えた。同歌集の隠岐本として伝来し
      ている。

 ●新古今和歌集
  見渡せば 山もと霞む みなせ川 夕べは秋と 何思ひけん
                  太上{だじょう}天皇(後鳥羽上皇)

  心なき 身にもあはれは しられけり
          鴫{しぎ}立つ澤{さわ}の 秋の夕暮   西行法師

  み渡せば 花ももみぢも なかりけり
          浦の苫屋{とまや}の 秋の夕ぐれ   藤原定家朝臣

 西行は、出家<注2>する前は佐藤憲清{のりきよ}(憲清)といい、北面
の武士だったが、歌人としても非凡な才能を持ち、多くの歌を残し<注3>、
歌集『山家{さんか}集』を作った。その歌は、自然を愛した彼の心の中を素
直に歌ったものがほとんどで、彼の作った歌は作られたものでなく、生まれた
ものであるといわれる。また、源実朝は、『金槐{きんかい}和歌集』<注4
>を作り、700首を収めた。藤原定家の指導を受けて、力強く格調高い万葉調
の歌を含むとともに、貴族文化へのあこがれも見せている。

  <注2>出世の可能性が無くなると出家するのが習慣だった。西行は23歳
      で出家したが、京都近辺に暮らし、身分の関係ない歌人として交
      流を持つことがその理由だったといわれる。
  <注3>『詞花{しか}和歌集』に「読み人知らず」で1首、『新古今和
      歌集』に94首取り上げられる。『千載{せんざい}和歌集』や自
      身の歌集などに2100首余が残されている。
  <注4>金は鎌倉の「鎌」の偏、槐は右大臣(右大臣の唐名を槐門{かい
      もん})のことで、実朝を意味している。

 ●金槐和歌集
  大海の 磯もとゞろに よする波 われてくだけて 裂けて散るかも


 文学も、貴族中心の物語文学から、戦乱が主題の軍記物語<注5>に変わり
つつあった。『平家物語』は、信濃前司{しなののぜんじ}藤原行長{ゆきな
が}と生仏{しょうぶつ}が協力して作ったとされる平氏の興亡を主題とした
ものである<注6>。そして、琵琶法師{びわほうし}によって平曲{へいき
ょく}<注7>として語り継がれ、文字の読めない人にも広く親しまれた。そ
れ以外にも、『保元{ほうげん}物語』、『平治{へいじ}物語』、『源平盛
衰記{げんぺいじょうすいき}』などもある。

  <注5>簡単な文体と和漢混淆文{わかんこんこうぶん:漢文訓読文体と
      和文体が入り交じった文語体}で書かれている。
  <注6>徒然草第226段にその説話が残されている。
  <注7>『平家物語』を琵琶の伴奏に合わせて語る音曲(琴・三味線に合
      わせて歌う音楽)のこと。

 平安末期に生まれた説話{せつわ}集も、様々な仏教説話や世俗{せぞく}
説話が作られた。『宇治拾遺{うじしゅうい}物語』は仏教や世事に関わる奇
談が多く収録され、『十訓抄{じっきんしょう}』は年少者への教訓としたも
ので、儒教的色彩が強いものである。橘成季{たちばなのなりすえ}の『古今
著聞集{ここんちょもんしゅう}』は、多方面の古今の説話を収録し、それぞ
れの末尾に教訓を加えた。無住{むじゅう}の『沙石集{しゃせきしゅう}』
は、やさしい文体で仏の功徳を説き、世俗の説話を集めたものである。


 時代の流れを冷静に分析した随筆{ずいひつ}も作られた。鴨長明{かもの
ちょうめい}は『方丈記{ほうじょうき}』<注8>を著わし、1180年前後の
五大災厄を回想し、人生の無常を嘆きつつ、自身の不遇に思いを馳せている。
また、吉田兼好{よしだけんこう}<注9>は『徒然草{つれづれぐさ}』を
著わし、動乱期の人間と社会を深い洞察力で簡潔・自由な筆で描いたものであ
る。この2つは、隠者{いんじゃ:俗世間を離れて山野に閑居した人}の文学
といわれている。

  <注8>日野山の方丈庵で書いたので、この名がある。
  <注9>俗名は卜部兼好{うらべかねよし}という。吉田兼好と呼ばれる
      のは、兼好の生家の卜部家が京都吉田神社の神官をしており、そ
      の子孫が吉田姓を名乗ったために後世の人がつけたものである。

 歴史書では、慈円{じえん}が『愚管抄{ぐかんしょう}』を著わした<注
10>。歴史の展開としての道理{どうり}と末法思想とで歴史を見たもので、
神武{じんむ}天皇から承久の乱直前までを7期に分けている。後鳥羽上皇の
討幕計画を諫{いさ}めることを意図してまとめられたものである。

  <注10>慈円の父は藤原忠通{ただみち}、兄は藤原兼実{かねざね}
      で、後鳥羽上皇に仕え天台座主{ざす}の地位にあった。タイト
      ルの愚管とは、「愚かな管(筆)のすさびに」という意味であ
      る。

 ●愚管抄
   年ニソへ日ニソへテハ、物ノ道理ヲノミ思ツゞケテ、老ノネザメヲモナ
  グサメツゝ、イトゞ年モカタブキマカルマゝニ、世中モヒサシクミテ侍レ
  バ、昔ヨリウツリマカル道理モアハレニオボエテ、…保元以後ノコトハミ
  ナ乱世ニテ侍レバ、ワロキ事ニテノミアランズルヲハバカリテ、人モ申ヲ
  カヌニヤト、ヲロカニ覚エテ、ヒトスヂニ世ノウツリカワリオトロへクダ
  ルコトワリ、ヒトスヂヲ申サバヤトオモヒテ思ヒツゞクレバ、マコトニイ
  ハレテノミ覚ユルヲ、…世ノ道理ノウツリユク事ヲタテムニハ、一切ノ法
  ハタゞ道理ト云二文字ガモツナリ。其外ハナニモナキ也。

 さらに、『水鏡{みずかがみ}』は、『大鏡』記述以前の神武天皇から仁明
{にんみょう}天皇までを扱っている。『吾妻鏡{あづまかがみ}』は、源頼
政{よりまさ}の挙兵から宗尊{むねたか}親王が帰京するまでの諸事件(11
80〜1266年)を日記体で記した鎌倉幕府の公的な記録書である。虎関師錬{こ
かんしれん}の『元亨釈書{げんこうしゃくしょ}』は、漢文体の日本仏教史
で、日本の高僧の事績{じせき}を知らないことを指摘されて書いたといわれ
ている。


 学問の分野では、有職故実{ゆうそくこじつ}や古典研究が盛んになった。
有職故実は、朝廷や公家社会の儀式・礼儀・年中行事{ねんちゅうぎょうじ}
や官職などを研究する学問である。順徳{じゅんとく}天皇の『禁秘抄{きん
ぴしょう}』は、朝廷の諸行事の次第や政務の進め方など全般にわたる作法が
書かれている。古典研究では、仙覚{せんがく}の『万葉集註釈{ちゅうしゃ
く}』は『万葉集』、卜部兼方{うらべかねかた}は『釈日本紀{しゃくにほ
んぎ}』は『日本書紀』の注釈書である。

 武士も学問への関心が高くなった。北条実時{さねとき}は、武蔵金沢{か
ねさわ}称名寺{しょうみょうじ}内に金沢文庫を開き、仏書など2万巻を収
めた。また、この頃、宋の朱熹{しゅき}が打ち立てた宋学(朱子学{しゅし
がく})が伝えられ、その中の大義名分論{たいぎめいぶんろん}が討幕運動
の理論的なよりどころとなった。大義名分論は、君と臣の関係には守るべき分
限があるとの考えに基づき、幕府と天皇の在り方を正そうとする考えである。


■ コーヒー・ブレイク ■
┃法事
 採用試験があった週の前半に、実家の近所で法事があり、それに出席してき
ました。本来は父親が出席するんですが、諸事情あり、試験前なのに私が行っ
てきました。おっさん(和尚さん、坊さんのこと)に念仏をあげてもらうだけ
ですけどね。途中地震もあり、1時間という長時間で足がしびれました。

 だいたい、その後はお呼ばれをしてきます。お呼ばれとは、御馳走になるこ
とです(辞書にある言葉です)。仕出しなどが多いんでしょうが、初めてなの
で何が何だか分からないんですが、荷物を降ろすのにいったん家に寄ってもら
った後、料理屋に行きました(あっ、タクシーで)。料理の多いこと多いこ
と。手をつけなかった料理は持ってきました(テンプラなど)。カニも出てい
たことから、集中しすぎて……。お酒も出ましたので、それとカニで満腹でし
た。近所の方は、父親がよく飲んでいた(今は飲めませんけど)から息子も、
という感覚があるんでしょうが、私は大瓶1本程度しか飲めませんから。

 それがお開きになった後、近所の若い方々と料理店の近所のスナックへ。ま
た、ここでビールなど。カラオケも。結局、連れ回されたような感じです(一
番若いし)。その後はタクシーが家まで帰ってきました。今年初めてお酒を飲
みましたので、翌日まで苦しみました。


■ 「その時歴史が動いた」の要約 ■
┃勝負師は志高く〜碁聖・本因坊秀策の無敗伝説〜(2006/07/05放送分)

 文政12年5月、桑原虎次郎(後の本因坊秀策)が広島の庄屋に生まれる。秀
策は物心ついた時から、囲碁に強い好奇心を抱いていた。母のかめは、囲碁と
縁があるかもしれないと考え、秀策に囲碁を教えることにした。秀策はみるみ
る力をつけ、神童と呼ばれるようになる。7歳で地元三原城主に見出され、英
才教育を施される。程なく広島藩屈指の碁打ちとも肩を並べるほどになった。

 天保8年、城主の薦めで江戸で修行することになる。秀策が入門したのは本
因坊丈和。秀策の修行生活が始まる。まず、日々の雑務をこなす。そして、記
録の研究。過去の偉人が打った記録を読み込んで同じように並べ、盗み覚えて
いく。また、実践も欠かせず、他流試合を度々行ない、地方にいる碁打ちとも
対局した。囲碁だけにとどまらず、漢学や書道なども学び、幅広い教養を身に
つけなければならなかった。

 入門して6年が経った天保15年、秀策は兄弟子の本因坊秀和と対局すること
になった。秀和はこの時25歳、本因坊家を代表して御城碁{おしろご}にも出
仕する実力の持ち主。秀策はこれまでの研究を重ねた打ち方を試してみた。黒
を持った秀策は3手続けて隅を狙って打つ。続いて、右上の黒石の斜め隣に打
った。これは秀策流と名付けられ、序盤に隅に陣地を重ねる戦法として、後世
に継承された画期的な打ち方。これをきっかけに四隅を手堅く抑えた秀策は、
引き分けに持ち込んだ。


 弘化3年、18歳の秀策は大坂で井上因碩{いんせき}と対戦する。この勝負
の裏には本因坊家と井上家の確執があった。6年前、井上は碁所{ごどころ}
の地位をかけて、兄弟子の秀和と対局。井上はこの対局に敗れ、碁所の地位を
断念していた。両家の因縁を背負った秀策の戦いが始まる。秀策は四隅を固め
る作戦に出る。序盤戦は老獪な井上の攻めに翻弄される。中盤戦も井上がリー
ド。秀策の127手目、碁盤のほぼ中央に渾身の一手を放つ。井上は狼狽を隠せ
ない。これをきっかけに秀策は巻き返し、結局逆転で秀策が勝利した。

 弘化3年9月、秀策は本因坊家から養子となって跡継ぎにならないとかいう
話を持ちかけられる。秀策は首を縦には振らなかった。彼の気持ちを知った丈
和は、つてをたどり、秀策の跡継ぎを認めてくれるように三原城主に頼んだ。
藩主はこれを快諾。翌年の嘉永2年11月、秀策は御城碁への出仕する。御城碁
はその時代を代表する碁石が登場し、磨き上げた技を将軍の前でぶつけ合う。
緒戦の相手は安井算知、御城碁30戦目のベテラン。秀策はこの檜舞台にも動じ
ることなく、冷静に修行の成果を出す。戦いは秀策が堅実にリードを広げ、11
目の大差でデビュー戦を飾る。


 秀策は毎年のように御城碁に出仕し、一度も敗れることなく、快進撃を続け
る。ちょうどその頃、時代は大きく動き始めていた。嘉永6年に黒船来航、そ
の2年後に巨大地震が江戸を襲った。安政7年に桜田門外の変が起こり、御城
碁、御好碁{おこのみご}はたびたび中止。そんなある日、秀策の元に母が病
という知らせが届く。秀策は見舞いの手紙を送る。いったん御城碁が始まると
一週間外出も禁じられる。この頃、御城碁17連勝中。

 文久元年11月、御城碁、御好碁とも無事に開かれた。将軍家茂も上覧。秀策
は緒戦で勝利して18連勝。続いて御好碁では林有美{ゆうび}を破り、12年間
負けなしという記録を作る。およそ1ヶ月後、母の死去の知らせが届く。秀策
は100日間喪に服し、精進生活を送る。そして、母の死から半年、江戸でコレ
ラが流行し、本因坊家でも倒れる人が続出、秀策は心を尽くして看病に当たる
が、文久2年8月に秀策自身がコレラに倒れる。その1週間後、秀策死去、34
歳。本因坊家の人は皆助かったが、秀策だけが命を落とした。秀策の死の年か
ら、世情の不安を背景に御城碁は中止され、二度と開かれることはなかった。


 時代は明治、大正、昭和へ。囲碁の世界も変わっていく。昭和13年、本因坊
秀哉{しゅうさい}が引退。これを機に家元制は廃止され、本因坊の名は日本
棋院に譲り渡される。そして、昭和16年、第一期本因坊戦開催。本因坊の名は
家元からタイトル戦の名へと変え、その称号をかけて、毎年碁打ち達が争うシ
ステムへと変わった。


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「日本史なんて怖くない」(毎週火曜・金曜日配送)
 発 行 者:村田圭(kei-mu30_his2@nifty.com)
 ホームページ:http://homepage1.nifty.com/keimurata/
               (バックナンバーは「日本史」にあります)
    掲示板:http://8526.teacup.com/keimurata/bbs2

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次回は?
 内容は、「朝廷の分裂と鎌倉幕府の滅亡」です。
 「その時歴史が動いた」は、
  「焼け跡から生まれたチャンピオン〜ボクシング  白井義男とカーン〜」
                                です。

最後にひとこと:梅雨明けしてないのに、暑くです。

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