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「日本史なんて怖くない」

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「日本史なんて怖くない」列強の接近1

発行日: 2003/9/2

■「日本史なんて怖くない」No.363  2003/09/02 ━━━………‥‥‥☆

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□□□□□□□□□□□□□□【目 次】□□□□□□□□□□□□□□□□
 ● 今回の内容         ★ 一問一答問題
 ☆ コーヒー・ブレイク     ○ 「その時歴史は動いた」の要約
 △ 次回と一問一答の答え    ■ 最後にひとこと
□□□□□□□□□□□□□□【読者数】□□□□□□□□□□□□□□□□
 総読者数:3762人(前回配送時)
  まぐまぐ:1994人  カプライト:461人  Pubzine:161人
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■ 今回の内容 ■
┃幕政の衰退(1)
┃列強の接近(1)
 日本国内で財政再建を含んだ体制再建に努めていた頃、日本の近海にはロシ
ア船やイギリス船などが現われ、幕府は外交体制の変更を迫られるようになっ
た。

 寛政4(1792)年、ロシアの使節ラクスマン(ラックスマン)が通商を
求めて根室にやってきた。この時、老中松平定信は長崎への入港許可を出し
た。また、この時大黒屋光太夫、磯吉、小市の漂流民も連れていた。


<大黒屋光太夫>
 大黒屋光太夫は宝暦元(1751)年、伊勢国白子浦に近い南若松(白子・
若松ともに三重県鈴鹿市)の農夫の子に生まれ、長じて叔父の養子となったら
しい。白子は染型紙の特産地で知られるが、当時は松坂木綿や薬種を江戸へ積
みだす屈指の商港であった。天明2(1782)年12月、光太夫は千石船神
昌丸の船頭として16人の船員とともに白子を出発し、江戸へ向かった。

 しかし、遠州灘で暴風雨に見舞われ、8ヵ月間漂流して、アリューシャン列
島の西端に近いアムチトカ島(当時は帝政ロシア領)に漂着した。島民のロシ
ア人は好意的であったが、ここで部下7人を病気で亡くした(うち一人は漂流
中に死亡)。4年後、毛皮猟のロシア人と出会いカムチャッカヘ上陸したが、
この地で1年滞在したが、ここで3人が亡くなり、生存者は6人となった。

 さらにオホーツク、ヤクーツク、イルクーツクに滞在した。光太夫らはここ
で帰国願を申請したが、彼らを日本語学校の教師にしようと考えたシベリア総
督により握りつぶされた。さらに、庄蔵・新蔵の2人は洗礼を受けてロシアに
帰化した。そこで彼らは、ロシア帝室付で自然科学者のキリル=ラクスマン教
授(日本に来たアダム=ラクスマンの父)の援助を得て、ペテルブルクに上
京、女帝エカチェリーナ2世に直訴した。その結果、3ヵ月後に帰国が許され
たが、この間、光太夫の人品と教養もあいまって、国賓なみの扱いをうけたと
いう。こうして、寛政4(1792)年10月光太夫が10年ぶりに帰国した
時、連れは北浜磯吉ただひとりになっていた。

 故郷では、すでに光太夫らは死んだものと考えられていた。伊勢の若松にあ
る緑芳寺の過去帳には天明2年12月14日を光太夫の命日としてあり、寺の
南方にある山中墓地には六地蔵と並んで光太夫ら一行の供養塔が建っている。
また、東京の回向院には帆船の形をした墓石があり、寛政元(1789)年に
光太夫ら一行の菩提を弔っている。

 寛政5(1793)年、幕府は光太夫と磯吉を江戸に呼び出し、松平定信ら
の質問に答えた。結局2人はロシアのスパイという疑いははらせたものの、故
郷には戻れず、番町の薬園内に住むことを強制された。光太夫はここで新たに
妻帯し、1男1女をもうけたが、文政11(1828)年に78歳でこの世を
去り、磯吉はその10年後、75歳で亡くなった。この間、薬園に収容されて
半年後の寛政6年閏11月11日は西暦1795年1月1日にあたったので、
大槻玄沢が芝蘭堂で開いた新元会(オランダ正月)に出席したが、これは数少
ない文化活動だった。

 光太夫の持ち帰った世界的知識は当時日本に芽生えた蘭学に大きな影響をも
たらした。光太夫の供述は桂川甫周{かつらがわほしゅう}によって『北槎聞
略{ほくさぶんりゃく}』にまとめられた。

 また、大黒屋光太夫が、寛政3(1791)年11月1日にロシア女帝エカ
チェリーナ2世から紅茶を餞別に送られたと言われている。


 文化元(1804)年にはレザノフが大西洋・太平洋を経て長崎へ来た。こ
の際、ラックスマンに与えられた入港許可証をもって入港した。幕府は漂流民
4人は受け取ったが、半年待たされた挙げ句に通商は拒否された。

 その後、レザノフは憤慨して長崎を退去し、カムチャッカへ行き使節を解散
した。その間に宗谷湾や樺太などを調査して、防衛施設が貧弱であることを調
べた。レザノフは復命書を持ってシベリアを横断する一方で、樺太・蝦夷地へ
の攻撃命令も下していた。ただ、この攻撃命令を取り消さずにレザノフが亡く
なった。文化4(1807)年9月に、樺太大泊{おおとまり}を襲撃し、松
前藩の役人を捕らえ荷物を奪うとともに同地を占拠した。さらに、文化5(1
808)年4月には択捉島を襲撃した。この際日本側は戸田又太夫{まただゆ
う}が防御につとめるが自刃した。翌月は、樺太の運上屋が焼かれ、利尻島も
襲撃され、艦船2隻が焼かれた。

 文化8(1811)年にディアナ号の艦長ゴロー(ウ)ニンが、千島列島を
測量中に国後島で捕らえられ、2年間箱館・松前に監禁された。この事件は、
翌年にロシアに捕らえられた淡路の商人高田屋嘉兵衛{たかだやかへえ}が事
件解決に努力し、ゴローニンと嘉兵衛を交換する形で両者が釈放された。ゴロ
ーニンは、釈放後に『日本幽囚記』をまとめた。

 幕府は、ロシアの接近に対応するために蝦夷地を一時直轄とした。寛政11
(1799)年に東蝦夷地(北海道の南部)を、文化4(1807)年に西蝦
夷地(北海道の北部)を直轄とした。さらに、享和2(1802)年には蝦夷
奉行を設置し、同年箱館奉行と改称し、文化2(1805)年に松前奉行と改
称した。一時直轄とした蝦夷地は文政4(1821)年に松前藩に返された。

 また、寛政12(1800)年から伊能忠敬の蝦夷地の測量が開始された。
これは地球の大きさはどれくらいなのか?から始まった忠敬の興味が最初にあ
った。その後、幕府の命によって実測によって驚異的な正確さを誇る『大日本
沿海輿地全図{よちぜんず}』が文政4(1821)年、忠敬が亡くなってか
ら3年後に高橋景保の手によって完成することになる。

 伊能忠敬は上総の人で、18歳の時に下総佐倉の酒造家で名主を務める豪農
伊能家に養子として入り、家業の興隆、民生の安定に努めて、苗字・帯刀を許
された。忙しい合間を縫って、算数・測量・天文などを独学で学び、50歳で
家督を譲った後、江戸に出て19歳年下の幕府天文方高橋至時{よしとき}に
師事し、西洋暦法や測図法を学んだ。

 さらに幕府は、最上徳内{もがみとくだい}・近藤重蔵{じゅうぞう}に千
島列島を、間宮林蔵には樺太を探検させた。

 最上徳内は天明6(1786)年に蝦夷地と千島を探検した。近藤重蔵は寛
政10(1798)年に松前蝦夷地御用掛となった。そして、択捉島を調査
し、「大日本恵登呂府」の木標を立てた。享和元(1801)年には、富山元
十郎らが千島列島ウルップ島に「天地長久大日本属島」の標柱を立てた。

 間宮林蔵は文化5(1808)年に樺太を探検し、翌年には樺太が島である
ことを発見し、間宮海峡と名付けられた。間宮林蔵は、さらに黒竜江をさかの
ぼって調査した。間宮海峡は日本人の名が付けられた世界公認の唯一の地名で
ある。これを命名・紹介したのはシーボルトで、シーボルト事件は間宮の告発
によるという。


<間宮の探検の際の話>
 常陸筑波郡に生まれた間宮は、普請役雇に見出されて江戸に出て、後に蝦夷
地へ渡って樺太などを探検した。当初は寒さに負けて病気がちで、とても探検
する状況ではなかった。そんな間宮に忠告したのはそこに住む土地の人だっ
た。ここで暮らしたいならアイヌの真似をせよと言われ、魚などを食べ出し
て、以後頑強な体となり、偉業を成し遂げたという。


 その一方で、『海国兵談』を著わした林子平を罰した。この著書はロシア南
下を警告して海防論を展開した。そして、軍備・戦術を図解説明したものだ
が、人心を惑わすとして処罰された。林子平は、寛政の三奇人と呼ばれ、後の
2人は、高山彦九郎・蒲生君平{がもうくんぺい}である。


<樺太・千島>
 樺太は古く唐太と書き、唐人{からひと}から転じたとされるが、土語では
サハリャン=ウラ=アンガ=ハタ(黒竜江口峰の意)という。文化6(180
9)年に幕府は北蝦夷とよんだが、明治2(1869)年に樺太と改称され
た。千島もそれまでは東蝦夷とよばれていたが、ここに住む千島アイヌはクリ
ルとよばれ、列島はクルミセ島ともよばれていた。


※※※※※※※※※※※<読者の声を募集しています>※※※※※※※※※※
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※ ルマガを返信する形でメールで送ってください。本誌上でさらに詳し ※
※ く説明します。また、いろいろな情報もお待ちしています。     ※
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● 一問一答問題 ● 答えはフッターの下にあります。
1.寛政4年に根室に来たロシアの使節は誰か。
2.1.の使節に乗っていた日本人漂流民は誰か。
3.2.の供述をまとめた人物とその著書を答えよ。
4.文化元年に長崎に来たロシア使節は誰か。
5.文化8年に国後島で身柄を拘束されたロシア人は誰か。
6.5.の人物が釈放される際、交換で釈放された日本人商人は誰か。
7.5.の人物が釈放後に書いた著書は何か。
8.幕府はロシアの接近に対応するために蝦夷地をどうしたか。
9.『大日本沿海輿地全図』を作ったのは誰か。
10.幕府が命じて樺太を探検したのは誰か。
11.幕府が命じて千島列島を探検したのは誰か。
12.『海国兵談』を著わして処罰されたのは誰か。


■ コーヒー・ブレイク ■ お休みです。


■ 「その時歴史が動いた」の要約 ■
┃板垣死すとも、自由は死せず〜日本に国会を誕生させた不朽の名言〜
┃                       (2003/08/27放送分)

 板垣退助は、戊辰戦争で新政府の勝利に貢献した功績で、明治新政府の中枢
に取り立てられた。板垣は薩摩の大久保利通や西郷隆盛、公家の岩倉具視らと
新たな国家作りに着手する。明治政府は西洋列強に対抗するため、富国強兵策
を打ち出した。明治6年1月には徴兵令が公布される。国民による軍隊が創設
されたことで、士族は軍事を担う役割を解かれる。農村では徴兵令で労働力が
奪われた上に、税の負担もかさんだことから、政府に対する不満が高まり、各
地で一揆が続発。近代化のためにやむを得ないとする大久保や岩倉、士族まで
見捨てるのは許せないとする板垣や西郷、政府内は対立していた。

 明治6年9月、外交問題をきっかけに両派の対立が表面化。大久保らは西郷
や板垣らの主張を退ける工作を実施。これに不満を持った板垣や西郷らが辞表
を提出した。板垣は在野の立場から、いかに政治活動を展開するか模索を始め
る。明治7年、板垣は愛国公党を結成。明治政府に対抗するには、まず議会設
立を目指さなければならない。愛国公党は政府に国会設立の建白書を提出する
が、政府は建白書を拒否。板垣は民衆の意識を政治へと向け、国会開設の声を
高めていくしかないと考える。

 板垣たちは東京を離れ、故郷で運動することを決意した。明治7年3月、板
垣は土佐に帰り、立志社を設立。また、学校を設立して、民衆に広く自由や権
利という考え方を教える教育を始める。この学校では当時出版して間もない哲
学者J.S.ミルの『自由論』を使って自由という概念を教えていた。人々が
修養勉学し、自由と権利に目覚めていくという板垣の構想は期待を大きく上回
る勢いで現実のものとなりつつあった。


 明治10年2月、西南戦争が起こった。立志社でも西郷に呼応して、蜂起す
べしとの声が挙がる。立志社で自由に目覚める民衆と共にあった板垣は、あく
まで言論で国会開設を迫ることを宣言。その1ヶ月後、西郷らは明治政府軍の
前に敗れ去る。

 板垣は地方での演説会を積極的に行なう。聴衆は税金への苦しみと怒りを代
弁する板垣たちへの期待を高めていく。板垣は県外から自由民権を学びに来た
人たちに、地元に帰って国会開設の主張を広めるよう働きかける。こうした草
の根の交流が進み、やがて国会開設を主張する政治結社が続々と誕生。政府は
立志社に密偵を放ち、演説会に潜入。逐一その様子を政府に報告した。

 明治11年7月、演説会には必ず警察官を立ち会わせ、警察の判断で演説を
中止できる法令を定める。9月、政治結社の代表46人が大阪に集結。一時活
動を休止していた愛国社が再興される。政府は明治12年4月、県や町村に地
方議会を開くことを認める。これによって国会開設を目指す板垣たちの主張は
一歩前進したかに見えたが、地方に一定の自治を認めることで民衆の不満を地
元議会に向けさせて、中央に及ぶことを防ごうとするものだった。しかし、民
権運動は衰えず、大阪での愛国社の集会では人々が殺到していた。

 明治13年4月、集会条例を公布。政治に関するすべての集会に警察への届
け出が義務づけられ、集会が国家の安全を妨害すると判断された場合には、そ
の集会は勿論、主宰した政治結社そのものも解散させることができた。条例で
愛国社の集会に認可が下りなくなる。順調に勢力を増しつつあった愛国社は、
やがて解散に追い込まれた。また、板垣自身にも絶えず密偵がつきまとう。板
垣は目立った動きを控え、県内に活動を制限せざるを得なくなる。政府は板垣
たちの民衆主導の国会設立運動に真っ向から対立する姿勢を見せた。


 明治14年7月、北海道開発の長官だった黒田清隆が、巨費をかけて開発し
た北海道の国営事業の一切をわずか20億円ほどで癒着した民間業者に払い下
げたというスキャンダルが発覚。連日、新聞は払い下げ問題を取り上げ、政府
批判の論陣を張る。この頃も板垣には密偵が張り付き、行動は制限されていた
が、政府の独断専行の批判が高まる今こそ、国会設立を民衆に訴える時だと板
垣は考える。そして、弾圧覚悟で、全国遊説を決意する。

 9月10日、板垣は大阪での演説会に臨む。会場は板垣を待つ人々であふれ
ていた。続いて板垣は東京に乗り込む。東京の新橋駅では多くの人々が板垣を
歓迎するために集まった。政府内にも民衆の怒りを抑えるためには、国会開設
を認めざるを得ないという声が上がる。政府の実権を握っていた伊藤博文は、
民衆主導で国会が開設されることを恐れていた。10月12日、政府は国営事
業払い下げを中止するとともに、明治23年に国会を開設することを発表。し
かし、板垣は政府主導の国会開設を目指す時間稼ぎだと見ていた。その6日
後、政府主導の国会開設に対抗するため、民権派が結集し東京で自由党が結成
される。板垣が初代総理に選ばれた。板垣は民意を反映した国会開設の必要性
を改めて訴えるため、再び全国遊説にむかった。

 明治15年4月6日、板垣は岐阜で演説会を行なった。連日の遊説で疲れが
たまっていた板垣は、演説を終えると仲間たちより先に会場を後にする。板垣
が歩みを進めた時、背後から男の叫び声が聞こえた。間もなく、玄関先での異
変に気づいた仲間が男を取り押さえ、傷ついた板垣のもとに駆けつける。その
時、苦しい息の中から板垣が言葉を放つ。「板垣死すとも自由は死せず」この
時、板垣は7カ所の傷を負いながらも、一命を取り留めた。

 その後、板垣の襲撃事件は全国に伝わる。事件の場面を描いた瓦版や錦絵が
作られた。暗殺者に襲われながらも、命がけで自由を主張する板垣の雄姿に、
民衆は感動する。さらに事件は芝居の題材にも取り上げられ、社会現象にもな
っていく。板垣死すとも自由は死せずという言葉は、人々に自由という言葉を
浸透させ、国会開設運動を加速させていた。明治23年、ついに帝国議会が開
かれる。選挙の結果、板垣ら民権派の議席数は過半数を超える173議席を獲
得。日本に議会政治が築かれた瞬間。


 岐阜での襲撃事件から11日後、応急処置を受けた板垣は、療養のため大阪
に向かっていた。板垣一行は琵琶湖へさしかかった。板垣がふと湖上に目を向
けると一艘の船が近づき、板垣に大きな大段幕を掲げて見せた。明治31年、
板垣は大隈重信とともに日本初の政党内閣を組織する。その後も板垣は日本の
政党政治の発展に努力する。大正8年7月16日、板垣は心臓の衰弱から死去
する。高知城の敷地の一画に建てられた板垣の銅像。民衆に語りかける板垣の
姿を現わしたもの。

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/ 「日本史なんて怖くない」(第363号 2003/09/02)
/  発 行 者 :村田圭(ZVD04624@nifty.ne.jp)
/  ホームページ:http://homepage1.nifty.com/keimurata/

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● 次回は? ●
ノートは、「幕政の衰退」(2)で、「列強の接近」(2)です。
次回の「その時歴史が動いた」は、
    「クレオパトラ 地中海に散った世界帝国の夢
          〜エジプト最後の女王 知られざる政治手腕〜」です。

● 一問一答問題の答え ●
1.ラクスマン 2.大黒屋光太夫 3.桂川甫周/北槎聞略 4.レザノフ
5.ゴローニン 6.高田屋嘉兵衛 7.日本幽囚記 8.一時直轄化した
9.伊能忠敬 10.間宮林蔵 11.最上徳内・近藤重蔵 12.林子平


最後にひとこと:明日は授業。


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