「日本史なんて怖くない」 |
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■「日本史なんて怖くない」No.256 2002/11/04 ━━━………‥‥‥☆
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□□□□□□□□□□□□□□【目 次】□□□□□□□□□□□□□□□□
● 今回の内容 ★ 一問一答問題
☆ コーヒー・ブレイク ○ 「その時歴史は動いた」の要約
△ 次回と一問一答の答え ■ 最後にひとこと
□□□□□□□□□□□□□□【読者数】□□□□□□□□□□□□□□□□
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■ 今回の内容 ■
┃摂関政治(4)
┃摂関政治(1)
藤原氏の他氏排斥が終わった10世紀後半から11世紀にかけては、摂政関
白が常時置かれて、太政官の上に立って政治を行なっていた。この政治体制を
摂関政治という。また、摂政・関白を出す家を摂関家といい、最高の官位を占
める藤原氏の中でも頂点に立つものを「氏{うじ}の長者{ちょうじゃ}」と
いう。しかし、その地位をめぐって藤原一族間で勢力争いが繰り広げられる。
特に、藤原兼通・兼家の兄弟の争いと藤原道長・伊周{これちか}の伯父・甥
の争いは有名である。藤原伊周が罪を得て左遷されると、藤原氏一族の争いは
終わった。
<兼通・兼家兄弟の争い>
天禄元(970)年に藤原実頼{さねより}が亡くなると、実頼の甥で藤原
師輔の子の伊尹{これただ・これまさ}が関白となった。天禄3(972)年
に伊尹が死ぬと、弟の兼通が関白となった。兼通は、二つ年下の妹の安子{あ
んし}に「摂政・関白は兄弟の順に選ぶように」と書いてもらった手紙を円融
天皇に見せ、関白の地位を獲得した。
これは、一つ違いの弟の兼家の位がいつも上であったので、手紙を書いても
らい時期を待っていたのである。天皇も母の言いつけで仕方なく兼通を関白に
任命した。天延2(974)年には、兼通は娘で27歳の〔女皇〕子{こう
し}を円融天皇(15歳)の皇后とし、実頼の子でいとこの頼忠を相談相手と
し、兼家を無視した。
兼通の病が重くなったとき、門前に兼家の牛車の音がしたので、いくら仲違
いしていても死ぬときには見舞いに来てくれたかと兼通は喜び、弟に関白を譲
ろうと考えたが、兼家の牛車は通り過ぎて御所に向かった。弟は自分の死後、
関白の地位をもらい受けようと運動に行ったかと兼通は重態の床を飛び起きて
参内し、最後の除目{じもく}を行って頼忠を関白とし、兼家を右近衛大将か
ら治部卿{じぶのきょう}に左遷して、その後一月もたたないうちにこの世を
去った。
右近衛大将は従三位、治部卿は正四位下で、事実上の左遷となる。
<花山天皇の出家>
永観2(984)年、円融天皇は譲位し、17歳の花山{かざん}天皇が即
位した。関白の藤原頼忠{よりただ}は兼家を右大臣に推し、皇太子には兼家
の娘詮子{せんし}の子で5歳の懐仁{やすひと}親王が立ち、兼家は次期天
皇の外祖父の地位を手に入れた。寛和元(985)年、天皇が熱愛していた*
子{しし}が死に、若い天皇は悲嘆のあまり出家の意志を持った。
兼家は喜んで、三男の道兼に出家を勧めさせて花山院に連れ出した。この
時、摂関家の私兵となっていた源満仲が警固した。その間に長男の道隆らが神
器を皇太子の室に移した。四男の道長は天皇は行方不明と関白に報告し、一夜
のうちに花山天皇が譲位、懐仁親王を一条天皇として即位させた。
こうして天皇の外祖父である兼家が摂政となり、兼家の娘超子{ちょうし}
の子で11歳の居貞{いやさだ}親王を皇太子に立て(天皇より年長の皇太子
ははじめて)、天皇、皇太子とも外孫とすることでこの後の摂関の地位を兼家
の子孫で独占する基礎を築いた。
*は「低」の「イ」を「りっしんべん」に直した字です。
<道長・伊周の争い>
長徳元(995)年、赤斑瘡{あかもがさ(はしか)}が流行した。4月1
0日に死んだ関白道隆は糖尿病だが、後を継いだ道兼も5月2日に宣旨を得て
8日後に死亡した(七日関白)。こうして道兼の後継者の候補は、道隆の子で
内大臣の伊周{これちか(22歳)}と道隆の弟で権{ごん}大納言の道長
(30歳)の2人となったが、伊周の妹は一条天皇の中宮定子{ていし}、道
長の姉は一条天皇の母の詮子{せんし}という関係にあった。
結局天皇は母の推薦で道長を選び、5月11日に道長は内覧{ないらん}と
なった。翌年、伊周は自分の通う女三の君の所へ花山法皇も通い始めたと誤解
し(実は妹の四の君に通っていた)、弟で権中納言の隆家(17歳)に相談、
隆家は夜帰宅途中の法皇を馬上から射て袖を射通した。さらに詮子を呪詛{じ
ゅそ(のろうこと)}して病を重くしたと噂がたって伊周を大宰権帥に、隆家
を出雲権守に左遷され、道長は伊周の排斥に成功し、左大臣となった。
こうして道長の地位は不動となり、長保元(999)年には12歳の娘の彰
子{しょうし}が20歳の一条天皇の女御{にょうご}となり、翌年には中宮
の定子を無理に皇后と呼ばせ、彰子を女御から中宮にあげた。しかし、中宮は
皇后の別名で本来同じ職である。
道長は権力の座に着くために熾烈な闘争を勝ち抜いた。特に甥である中関白
家の伊周との争いは、『大鏡』に弓の競射として活写されている。道長は「こ
の道長の家から、天皇・妃がおたちになるはずならば、この矢当たれ」と言っ
て放ったところ、的の真ん中に当ったが、伊周はこれに大変気後れをして手も
震え、矢は的の近くにさえ行かず、見当違いの方角へ行ってしまった。この話
は弓の名手であり実行力のある豪胆な道長像を伝えてくれている。
また娘が生んだ親王を即位させることにかける執念はものすごく、三条天皇
を在位5年で譲位に追い込み、9歳の後一条天皇を即位させ、自らは摂政とな
った。三条天皇は眼病を患っていた。これは血族結婚の結果で、目が悪く時々
見えなくなるくらいだったという。
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● 一問一答問題 ● 答えはフッターの下にあります。
1.摂政関白が常時置かれて、太政官の上に立って政治を行なっていた政治体
制を何というか。
2.藤原氏の中でも頂点に立つものを何というか。
3.2.をめぐって藤原兼通と争ったのは誰か。
4.2.をめぐって藤原伊周と争ったのは誰か。
■ コーヒー・ブレイク ■
┃やっぱり2位でした
3日に開かれた全日本大学駅伝。2区でトップに立った山梨学院大学でした
が、5区で抜かれ、最終区で盛り返したものの10度目の2位でした。どうし
て勝てないんでしょうねぇ。優勝は駒沢大学でしたが。
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■ 「その時歴史が動いた」の要約 ■
┃お休みです。
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/ 「日本史なんて怖くない」(第256号 2002/11/04)
/ 発 行 者 :村田圭(ZVD04624@nifty.ne.jp)
/ ホームページ:http://homepage1.nifty.com/keimurata/
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● 次回は? ●
ノートは、「摂関政治」(5)で、「摂関政治」(2)です。
次回の「その時歴史が動いた」は、
「豊臣秀吉 天下統一の必勝戦略〜小田原攻めに秘策あり〜」です。
● 一問一答問題の答え ●
1.摂関政治 2.氏の長者 3.藤原兼家 4.藤原道長
最後にひとこと:眠たいです。
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