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♪2003 高校日本史

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♪2002 高校日本史☆ 755 「ワンマン」吉田茂

発行日: 2002/9/10


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♪2002☆高校日本史講座 2002.09.10
 
−−−− 755☆「政党と政治家9・吉田茂」 −−−−−

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 今号は、戦前の外交官、戦後の政治家として活躍した吉田茂(よしだしげ
る、戦後の首相)を紹介します。
 

 
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 外交官時代

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 吉田茂は、1878(明治11)年、旧土佐藩士で自由党結成(1881
年)の中心人物となる竹内綱(たけうちつな)の5男として、東京で生まれ
ます。
 3才のとき、父の親友で神奈川の貿易商・吉田健三の養子となり、吉田姓
を名のります。1889年に養父は遺産50万円(現在の100億円に相当
します)をのこして死去しますが吉田は事業を継承しませんでした。

 学習院から東京帝国大学法科大学政治科(現在の東京大学)に転学し、1
906年卒業、外交官及領事館試験に合格して外交官の道を歩みます。
 同期には広田弘毅(ひろたこうき)がいます。

 勤務地は天津(てんしん)、奉天(ほうてん)など中国大陸が多く(ヨー
ロッパではロンドン、ローマ)、外交官としてあまり目立った存在ではあり
ませんでした。

 しかし、1919(大正8)年、妻・雪子の父である牧野伸顕(まきのの
ぶあき、大久保利通の次男)が全権となったパリ講和会議(第一次世界大戦
の戦後世界を協議する会議)に随員として加わったこと、1928(昭和3)
年に外務大臣を兼任していた田中義一首相(立憲政友会総裁、陸軍大将)に
直談判(じかだんぱん)して外務次官になったことなどは、彼の向上心を示
すものでした。

 戦前の吉田の外交思想は、中国に対しては立憲政友会とも共通する積極的
強硬策をとりながら英米(とくにイギリス)との協調主義をとるというもの
でした。周囲からも「親英主義」とみなされ、かれ自身もそのようにふるま
い、イギリス大使のときに日英提携を画策したこともあります(不成功)。

 1936(昭和11)年、2・26事件直後に広田弘毅が組閣したとき、
吉田は外務大臣に内定しますが、彼の親英主義に反感をもつ陸軍によって阻
止されます。

 運命は皮肉です。12年後の1948(昭和23)年12月23日。
 東京裁判(極東国際軍事裁判)でA級戦犯として絞首刑が言い渡されてい
た広田は東条英機らとともに死刑執行され、その日に吉田は第2次内閣の首
相として衆議院を解散します。
  
 戦時中の吉田は、外交官を退官して近衛文麿(このえふみまろ)らに接近
し、終戦工作に従事したため、憲兵隊に(けんぺいたい)に拘束され、代々
木(よよぎ)の陸軍刑務所に移されたこともありました。


 
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 戦後の首相

━━━━━━


 親英主義であり軍部の迫害をうけたという経歴は、敗戦後の吉田が政界で
活躍する場を与えます。1945年9月成立の東久邇宮稔彦(ひがしくにの
みやなるひこ)内閣、ついで成立した幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)
内閣に外務大臣として入閣します。戦前期は、立憲民政党の外交をになった
幣原(吉田の先輩であり上司でもありました)と、政友会系の吉田の仲は悪
かったそうですが、ともに戦後政治・外交の出発点に立つことになりました。

 翌1946年4月の戦後初の総選挙で日本自由党(旧政友会系)が第1党
になりながらも総裁・鳩山一郎が公職追放になったとき、吉田はピンチヒッ
ターとして総裁を引き受けて第1次内閣を組閣します。

 第1次吉田内閣のときに日本国憲法が公布されます。

 吉田の親英主義は、イギリス首相チャーチルのまねをして葉巻(はまき)
をくわえることにもあらわれていました。しかし、和服のときは羽織(はお
り)・袴(はかま)に白足袋(しろたび)というスタイルでした。

 官僚出身の彼は党人(政党政治家)を嫌い、佐藤栄作、池田勇人、大平正
芳、宮沢喜一ら官僚出身を優遇し、さらには1947年「2・1ゼネスト」
では労働者を「不逞(ふてい)の輩(やから)」と非難するありさまでした。

 サンフランシスコ講和条約の締結にあたって、「全面講和論」を提唱する
東大総長の南原繁(なんばらしげる)を「曲学阿世(きょくがくあせい)の
徒(と)」と非難したことも有名です。

 1947年4月の総選挙で日本社会党が第1党になり、片山哲、芦田均
(1948年)の両内閣が社会・民主・国民協同の3党連立内閣を組閣しま
す。そして、「昭電疑獄(しょうでんぎごく)事件」で芦田内閣が総辞職し
たあとをうけて1948年10月に第2次吉田内閣を組閣し、1954年1
2月に鳩山一郎に政権をわたすまで、6年あまり、第5次内閣まで担当する
ことになります。

 この第2次から第5次内閣までの時代は、占領から講和、独立の時代にあ
たります。
 東西冷戦の形成、中華人民共和国の成立(1949年)や朝鮮戦争(19
50年)などアジア激動のなかで、西側陣営に属する立場をとり、再軍備を
すすめながら、日本の国際社会への復帰を実現します。
(1951年、サンフランシスコ平和条約)

 日本の独立(1952年4月に平和条約発効)後は、破壊活動防止法(1
952年)、自衛隊発足(1954年)など「逆コース」とよばれる政策が
国民の反感をまねきます。

 そして、71名もの逮捕者をだした贈収賄事件の「造船疑獄(ぞうせんぎ
ごく)事件」がおきたとき、犬養健(犬養毅の子)法務大臣が指揮権を発動
して自由党幹事長・佐藤栄作の逮捕を阻止させたことは、吉田政権の末期症
状を示すものでもありました。 

 1954年12月に第5次吉田内閣は総辞職しますが、その後、「吉田学
校」ともよばれる人脈が自由民主党(1955年結成)のなかで大きな役割
をになっていくことになります。

 吉田茂は、1967(昭和42)年10月。89歳で死去し、戦後はじめ
ての国葬として葬られました。



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 次号は、石橋湛山です。
 以下、岸信介、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、中曽根康弘、細川護煕を
とりあげます。

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練習問題(早稲田・2002)====================


 朝鮮戦争勃発後、アメリカは日本を西側陣営に正式に編入するため、講和
による日本の独立を急いだ。日本国内には、とくに革新政党・知識人を中心
に、講和はソ連・中国を含む全交戦国との間の全面講和でなければならいな
いという意見もあったが、第3次吉田内閣は、再軍備の負担を避け、経済復
興の実現を優先課題とし、西側諸国との講和を行なうという( ア )講和
の方針をとった。

 1951年9月サンフランシスコで講和会議が開かれ、わが国とアメリカ
・イギリスなど資本主義陣営の48か国との間に平和条約が調印された。こ
の条約は交戦国に対する賠償責任を軽減したが、領土については厳しい制限
を加え、旧植民地の放棄が定められる一方、沖縄、( イ )諸島などはア
メリカの施政権下におかれた。

 平和条約の調印と同日、日米安全保障条約が調印され、独立後も日本国内
に米軍が駐留を続け、日本の防衛に寄与することになった。この条約に基づ
いて翌1952年には( ウ )が結ばれ、日本は米軍に基地を提供し、駐
留軍経費を分担することとなった。

 また、平和条約の発効とともに、すでに設置されていた警察予備隊が
( エ )に改称された。さらに、1954年には日米相互防衛援助協定の
締結により、わが国はアメリカの軍事・経済援助をうけるとともに、自衛力
増強の義務を負い、( エ )・警備隊を改組して自衛隊を発足させた。


問1.ア〜エに適する語句を記しなさい。なお、イの諸島は1968年に返
 還された。

問2.平和条約、日米安全保障条約の2条約の締結に尽力したアメリカ合衆
 国の特使は誰か。その人物はのちに米国国務長官となり、対ソ巻き返し強
 硬外交を展開した。



解答−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



問1.ア.片面、イ.小笠原、ウ.日米行政協定、エ.保安隊
問2.ダレス


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発行:松井秀行
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